資源の最適配分はいかにして可能か

2001年2月4日

社会システムを変革する時、何を規準にすればよいのだろうか。人々が異なる改善案を出すとき、どれを採用するべきなのか。功利主義的改善、パレート改善、カルドア改善の三つの改善策を検討しながら考えてみよう。

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1. 功利主義的改善

功利主義によれば、私たちは、快楽とマイナスの快楽である苦痛の社会的総和を最大化するべく行動しなければならない。「最大多数の最大幸福」が功利主義者の理想である。

功利主義に対しては、よく次のような批判がなされる。いま心臓を患っているA氏と肝臓を患っているB氏と腎臓を患っているC氏と健康なD氏の四人がいて、三人の病気を放置しておくと、A氏もB氏もC氏も死亡するが、D氏を殺して、その心臓と肝臓と腎臓を移植すれば、三人の命は助かるという状況を考えてみよう。

この場合、一人は死ぬが、三人が生き延びるので、合計二人分の命が救われることになり、功利主義的改善として有効である。四人だけで多数決を取れば、三対一でD氏の解体が民主主義的に可決されるにちがいない。しかしこうした功利計算で、D氏の殺害が正当化されてよいだろうか。

2. パレート最適

D氏は、多数決の暴力から自己を守るために、「最大多数の最大幸福」に対するアンチテーゼとして、パレート最適を主張するかもしれない。パレート最適とは、ある個人の効用水準(利益・満足度)を低下させることなく、別の個人の効用水準を上昇させることが不可能な状態のことである。遺伝子工学の発達により、臓器のスペアを人工的に作って、A氏・B氏・C氏三人の命を救うことができるようになれば、それは誰の効用水準をも下げることにならないから、パレート改善である。しかし、D氏の効用水準を低下させてまで、三人の効用水準を上昇させることは許されないというわけである。

パレート改善の図
上の図で、丸を生産可能な量の組み合わせとsると、赤丸がパレート効率性の前線を示す。前線に到達すると、それ以上のパレート改善が不可能になるが、不可能になるのは最前線の場合には限らない。K から D や E へ移行することはパレート改善になるが、N からは前線のどれかに移行することはできない。source: “A Pareto Optimal Front, illustrated using a production-possibility frontier” by Njr00. Licensed under CC-BY-SA.

このパレート原理は、一見理想的に見えるが、厳密に守ろうとすればほとんどすべての改善を不可能にするという難点を持つ。何かを変えようとすれば、必ず既得権益を守ろうとする誰かが反対するものだ。例えば、日本政府がウルグアイラウンドで米の輸入を自由化することは、グローバルな観点からは、不利益よりも利益の方が多いのだが、損害を被る日本の稲作農家は猛反対するので、パレート改善とはならない。

3. カルドア改善

この場合、利益を得た人から損害を被った人へ補償をすることにより、ヴァーチャルにパレート改善を実現する方法がある。これをカルドア改善と言う。日本政府が、米輸入自由化の恩恵を受ける海外の米輸出国や日本の消費者から関税をはじめとする税金を徴収して、それを農家にばらまくことは、カルドア改善の一例である。

では、カルドア改善は、本当に資源を最適に配分するであろうか。農業基盤整備のためと称して、6兆100億円のウルグアイラウンド対策予算で造られた農道空港やら温泉ランドやらを見れば、首をかしげたくなる。カルドア改善は、資源の生産者をモラルハザードに陥れることにより、配分すべき資源の総量を減らしてしまうことになる。

もちろんカルドアの規準を改善の是非を決めるたんなる規準として使い、実際に補償する必要はないとする立場もあるが、それなら、カルドア改善は功利主義的改善と同じになってしまう。

4. 信賞必罰的改善

功利主義的改善、パレート改善、カルドア改善がすべて見落としていることは、資源の配分は信賞必罰の原則に基づいてなされなければならないということである。改善により一部の人の効用水準が下がっても、それがペナルティとして妥当であるならば、その不利益はプラスの価値を生み出すことになる。逆に、D氏の身体を勝手に解体して、臓器を摘出することは、D氏に何の罪もない以上、不当な搾取である。

功利主義者や限界効用学派は、価値を主観的な満足感と同一視する。しかし快楽や満足感や幸福は価値に対する感情であって、価値そのものではない。だから、社会システムを改善する時、当事者の満足感の計算だけで決めてはいけない。そして法的正義や自由競争の原則を守ることも、経済的資源と同様に、それ自体で低エントロピーとしての価値を持つことを見落としてはいけないのである。