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ネットはメディアをどう変えるのか

2005年5月11日

インターネットの普及により、個人がメディアの主役になれるのか、それとも相変わらず大企業がメディアを支配し続けるのか。ニュースの選別をアクセスランキング等に頼っていると、興味本位の記事ばかりが読まれ、まじめなニュースが読まれなくなるのかといったネットメディアの未来に関する考察。

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1. 個人メディアは主役になれるのか

汝、沈黙するなかれ、北の大地より」に対するコメント。インターネットの普及により、個人がメディアの主役になれるのか、それとも相変わらず大企業がメディアを支配し続けるのかについて。

blogやサイト開いている人と個人の意志で総選挙に言って投票する人、逆転する日がやがてやってくるだろうか。その時、何かが変わるかといえば変わったともいえるし変わらないとも言える。なぜならば、向こうは会社であり、こちらは個人で何の保護もないからだ。[1]

多分、メディアの中で最も保護されているのは、新規参入が事実上不可能な地上波のテレビでしょう。新聞にも記者クラブとかありますが、テレビほど排他的ではありません。ネットの普及のおかげで、新聞社や出版社といった既存の活字メディアは経営が苦しくなっています。ネットテレビが普及すれば、誰もがテレビ局を開設できるので、地上波のテレビ局も経営が苦しくなるでしょう。法人が個人よりも有利とは限りません。知識集約型社会でも法人が個人よりも有利というのは、資本集約型社会の頃の幻想です。

商業主義でありながら過剰な保護を受けているマスコミの立ち位置と、ローコストで情報発信でき、投票行為としてのページビューを競うblogの立ち位置との違いか。[2]

将来インターネットがすべてのメディアを呑み込む時が来るかもしれません。問題は、ページビューが増えても、サーバーコストが増えるために、ほとんど収入につながらないところにあります。この問題を解決するために、私は、「定額式超流通の提案」を提唱しています。

2. ネットはバラエティ番組化するのか

ニュースの選別をアクセスランキング等に頼っていると、興味本位の記事ばかりが読まれ、まじめなニュースが読まれなくなるという既存メディアの主張に対する反論。

市民が勝手に情報を選んだら、きっとみんなテレビのバラエティ番組みたいなニュースばかり見るにちがいないと、そう思っていないだろうか?「公共性」は市民の側には期待できない、だから高邁な理想に燃えるメディア企業が必要だと、そういっているように思えるが言いすぎだろうか?[3]

ネットのニュースが「テレビのバラエティ番組」のようになることはないでしょう。テレビは新規参入が事実上不可能な寡占メディアで、「公共性」が高いために、多くの人を喜ばせる《あれもこれも》のバラエティになってしまいます。これに対して、ネットは新規参入がいくらでも可能ですから、私的性格を強くすることができ、《あれかこれか》になります。そして、必ずしも《あれかこれか》の専門的メディアが《あれもこれも》の公共メディアよりも低俗ではないということに注目すべきです。公共性の高いメディアでは、政治や経済関係のニュースのみならず、スポーツや芸能などのニュースまで一緒に見させられますが、選択性の高いネットでは、低俗ニュースを排除して読むことができます。

ネットにはいろいろなランキングがあるけれども、役に立つことはほとんどありません。ベストセラーランキングを見ても、読みたい本が見つからないのと同じです。他人がおもしろいと思うことが自分にもおもしろいとは限りません。公共性の高いサイトが流すニュースよりも、私的な観点から選別し、解説されたニュースの方が、読み応えがあります。ネットの長所はカスタマイズが可能であるところにあるわけで、大衆化・均一化とはむしろ方向が逆です。

脱工業化社会では、物にではなくて知に投資する。情報革命とは、生産の知識集約化だと言ってよい。情報社会では、労働商品の場合を含めて、いかに同じ商品を安く大量に生産するかではなく、いかに質の高い商品を専門的に作るかが課題である。[4]

3. 参照情報

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注釈一覧