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情報化時代のパラダイムシフト

2014年1月22日

ジャン・フランソワ・リオタールが『ポストモダンの条件』で、「大きな物語の終焉」を語ったのは、1979年のことである。70年代以降起きた思想のパラダイム・シフトの本質は、一行の詩という意味でのユニバースがの時代から、多数の行の詩という意味でのマルチバースの時代への転換である[1]

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1. 読者による問題提起

投稿者:こうもり.投稿日時:2014年1月22日(水) 19:26.

久しぶりの書き込みになります。以前は議論にご参加頂きありがとうございました。学術論議を旨とするこちらのトピックでのこのような冒頭の挨拶は永井さんのお嫌いになるところだと存じますので、早速本題に入りたいと思います。とは言っても、持論を展開するというよりは、皆さんのご意見を伺いたい質問のようなものになります。

タイトルにある通り、私は「第三次産業を主とする高度情報化社会において、世界の価値観を変えるようなパラダイムシフトは起こり得るのか。起こるとしたらどのようなカタチで起こるのか」ということについて長年疑問を抱えています。別の言い方をすれば、資本主義社会が崩壊することまではないにしても、貨幣経済の重要性が今後弱まったりすることがあるのではないかということです。

国民の大半が第一次産業に携わっていた産業革命以前の社会では東洋、西洋を問わず封建的な社会体制が採用されていたが、貨幣経済が発展するにつれ、革命や維新を通じて資本主義(や社会、共産主義)社会にシフトしていった—ということは小・中学校で習う歴史レベル、周知のことだと思います。大資本を要する大量生産、大量消費型の社会では、士農工商などの身分制度より、経済力が権力に直結したということでしょう。私の乏しい歴史観からは、「武士は食わねど高楊枝」と言いつつ傘張りをしていた浪人よりも、町人文化栄える江戸末期の商人の方が羽振りも良かったわけですから、もしかすると革命や維新などがなくても、お釜の底が抜けるように自然と封建体制は瓦解したのかもしれないと想像できます。土佐の下級武士であった岩崎弥太郎が商売の道に進んだのが好例です。

そして今、世界的な経済の停滞やスーパーキャピタリズム、カジノ資本主義と呼ばれるような資産経済の台頭によって、資本主義の終焉が囁かれるようにもなりました。が、それでは今後、身分や貨幣に代わってどのような価値観がプライオリティーを持つようになるのか、私は浅学にして存じ上げませんし、そのような議論もほとんど目にしたことがありません。トフラーのいう第三の波が押し寄せてからももう大分経ちますので、今回の資本主義社会のお釜の底も割れそうな予感だけは感じられます。その根拠としては、

  1. 第三次にあたるコンテンツ産業では需給のバランス、神の見えざる手が働かないこと。
  2. よって著作権の保護は風前の灯にあること。
  3. 著作権を放棄する作家やミュージシャンも現れ始めたこと。
  4. 既に多くの人が無償でコンテンツを提供していること(ブログ、YouTube、wiki、知恵袋など)
  5. 大資本を必要としないSOHOのような形態での起業が可能になったこと
  6. 車やブランド品を欲する若者の減少(古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち」)
  7. デフレにより安価で、安易な生活が担保されたこと(森永卓郎「年収300万円時代を生き抜く経済学」)

などが列挙できます。

繰り返しますが、決してお金が世の中からなくなるというわけではありません。現在でも血筋、家柄、皇族などの身分制度がその名残を維持しているように、貨幣経済も存続はしていきますが、その重要度、影響力は減縮していくだろうということです。例えば、金銭には権力を媒介するメディアとしての機能もあると思いますが(つまり金銭で購入できる車や家、あるいは資産そのものを誇示することで、人々の信頼や羨望を集めたり、地位を確保したりすることができる)、今後はお金を介することをしなくても、直接自分の知識や能力によって、評価や尊敬を得られるようになり、今ほど人々がお金に殺到したり、執着したりすることもなくなるだろうという予想です。そういう意味では、岡田斗司夫さんの「評価経済」が最も近い概念になると思うのですが、私の予想するパラダイムシフトは貨幣経済の下部に位置する、部分的な価値観のシフトではありません。かといって、皆さんに対して説得力のあるような確たるビジョンを持っているわけでもないので、悶々と自分の中で考えるにとどまっています。

漠然としていて答えにくく、ともすると幼稚っぽくも思われる質問だとは思いますが、「前提から間違っている」というご指摘でも結構ですので、ご意見をお聞かせ頂けたら幸いです。

無料化はパラダイムシフトなのか
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2014年1月26日(日) 06:51.

たしかに、インターネットは情報の流通コストを劇的に下げたため、インターネット上で多くのコンテンツやサービスが無料で提供されるようになりました。しかし、無料化と言っても、以下のような無料化が収益に結び付く場合は、貨幣経済あるいは資本主義を否定するような動きとは言えませんし、それどころかパラダイムシフトと呼べるほど新しい動きですらないものもあります。

  1. 無料のコンテンツやサービスに広告を掲載する場合。これは、ネット時代以前からラジオやテレビで行われてきた収益モデルがネット上でも採用されただけですから、新しい動きとは言えません。
  2. 有償のプレミアム版を売るためにフリーミアム版を無償で提供する場合。基本的なサービスや製品を無料で提供し、高度な機能について料金を課金するビジネスモデルですが、これも販売促進用に無料サンプルを提供するという形でネット以前から行われていました。
  3. 完成版のソフトを無償で頒布し、サポートを有償化するとか、音楽バンドが演奏ビデオを無料で公開し、知名度を上げることでコンサートの収益を増やすとか、コンテンツを無料で提供し、隣接サービスを有償で提供する場合。広告コストを支払う代わりに、無料コンテンツを提供していると解釈することもできますが、これは比較的新しい動きと言うことができます。

もちろん、ネット上には収益を求めないコンテンツあるいはサービスの提供者もいます。しかし、インターネットが普及する前から非営利団体による活動は存在したし、収益は求めないにしても、運営費は寄付などで賄われているのだから、貨幣経済を否定する動きとは言えないでしょう。

ところで、「前提から間違っている」と言うつもりはありませんが、無料でオープンなウェブが死に、課金が容易な半分閉じられたプラットフォームがネットの主流になると予測している人がいます。2010年8月の『WIRED』誌のカヴァーストーリー「ウェブは死んだ」(The Web Is Dead)で、前編集長クリス・アンダーソンは次のように書いています。

過去数年間にわたって起こっているデジタル世界での最も重要なシフトは、広くオープンなウェブから、半分閉じられたプラットフォームへの移行だ。後者もインターネットを使うが、表示にブラウザーは使わないもので、主に「iPhone」の興隆によって推進されている。この世界ではHTMLが支配せず、Googleがクロールを行うことができない。

[中略]

企業にとってはこうしたプラットフォームで収益をあげることが容易だという事実によって、この流れはさらに強固になる。生産者も消費者も、ウェブはデジタル革命の頂点ではないという点で意見が一致している。[2]

無料のオープンなウェブをブラウズする PC に代わって、アプリと親和性の高いモバイル機器が主流になるにつれて、ネットユーザは課金が容易なアプリに拘束されるようになるというのです。もちろん、アプリにも無料のものもあるし、ウェブにも昔から有料サイトはありましたが、今後は有料のコンテンツやサービスが増えるかもしれないということです。こうした予想は当たると思いますか。

アドホクラシー的な細分化
投稿者:こうもり.投稿日時:2014年1月27日(月) 19:13.

お返事ありがとうございます。

永井俊哉 さんが書きました:

もちろん、ネット上には収益を求めないコンテンツあるいはサービスの提供者もいます。しかし、インターネットが普及する前から非営利団体による活動は存在したし、収益は求めないにしても、運営費は寄付などで賄われているのだから、貨幣経済を否定する動きとは言えないでしょう。

確かにネット以前より非営利団体は存在していますね。しかしそれは、貨幣経済が主流となる前の封建時代から貨幣が存在していたのと同様のことではありませんか。私が想定しているパラダイムシフトは、前述したように、既存の価値観を完全否定するものではありませんし、未知の価値観が突然出現するようなものでもありません。

フランシス・フクヤマが「歴史の終わり」において、その弁証法的な理由として説く「無から有は生まれず、新しいものは必ず古いものの複雑な複合体であるに過ぎない。新しい完成品には、必ず過去にその源流となる原型、雛形、試作品があると考えられている(Wiki)」という考え方に私はほぼ同意しております。

より具体的には、貨幣の「等価交換メディア」としての機能は依然として残るでしょうが、「権力誇示メディア」としての機能が衰えていくように予想します。各国の中央銀行が発券する貨幣には、集権的なパワーが備わっていましたし、そのような貨幣は資産家にとってはただ貯めておくだけでも有用性があったと思われます。しかし昨今のiTunes、Gree、Nintendoなどのプリペイド、Suica、Edy、nanacoなどの電子バウチャー、Yahoo!、楽天、Tカードなど、マイレージを含むポイント制度の隆盛や、今後濫発されるだろうBitcoinのような仮想通貨を考えれば、貨幣の在り方は異質なものに変わらざるを得なくなるでしょう。

確かにその変化は永井さんがおっしゃるように、パラダイムシフトと呼べるほど大きなものではないかもしれません。が、その一方で再度私の幼稚でSF的な予想を述べさせて頂ければ、不換紙幣というものは信用でしかその価値を担保されないものですから、政府発行の貨幣であっても仮想通貨であっても、資産を抱えることが導火線に火のついた爆弾を抱えることになりかねない未来もあるのではないかとも思えます。

永井俊哉 さんが書きました:

無料のオープンなウェブをブラウズする PC に代わって、アプリと親和性の高いモバイル機器が主流になるにつれて、ネットユーザは課金が容易なアプリに拘束されるようになるというのです。もちろん、アプリにも無料のものもあるし、ウェブにも昔から有料サイトはありましたが、今後は有料のコンテンツやサービスが増えるかもしれないということです。こうした予想は当たると思いますか。

私が同じ記事を読んだ折には、ネットの「有料化」よりも「タコ壷化」を強く感じました。確かにクローズドなAppは課金が容易ですが、現在の実情を見渡しても、facebook、Twitter、LINEなどのアプリからCookPad、食べログに至るまで、ほとんどが従来の広告収入型で収益を上げているのに対して、課金は行われておりません。WhatsAppは使用2年目からの課金を果たしていますが、年間99セントというお賽銭程度の低価格です。残念ながらクリス・アンダーソンさんの予想は外れていると言っても良いかと思います。

反対に私は、第三次のパラダイムシフトは企業の思惑によって牽引されるのではなく、下部層からのアドホクラシー的な改革によって引き起こされるものだと予想しています。無料のW.W.W.、無料のAppに慣れてしまった消費者に、今さらクローズドで囲い込んだとしても、重度の課金を負わせることは難しいでしょう。

一方の「タコ壷化」については、永井さんには説明の必要もないでしょうが、「大きな物語の崩壊」以降の「タコ壷化」「小宇宙化」と呼ばれる現実世界での動向が、そのままネット社会に反映されたものだと思います。

よって今回の「The Web Is Dead」の例は拙論を補完して下さっているように感じました。貨幣が多様化、細分化するのと同様、「タコ壷化」されていくネットの趨勢も、「グローバル化」とは逆のベクトルを指向しています。第三次パラダイムシフトは、お釜の底が割れるような、アドホクラシカルな細分化によって進展すると言っても良いでしょう。もちろん現在は多勢を占めている「権力メディアとしての貨幣」を支持する人々のタコ壷が、今後も存続していくことはあるでしょうが、その規模は縮小の一途を辿るでしょう。身分制度を固持し続ける人々のタコ壷が縮小したのと同じようにです。

アドホクラシー対ビューロクラシー
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2014年1月28日(火) 06:05.

こうもり さんが書きました:

私が想定しているパラダイムシフトは、前述したように、既存の価値観を完全否定するものではありませんし、未知の価値観が突然出現するようなものでもありません。

パラダイムとは何か」で「革命が非連続に見えるのは、競合するパラダイムの権力関係が急激に変化するからであって、新しいパラダイムが無から生じることはない」と書いたとおり、私もそのように認識しています。

こうもり さんが書きました:

より具体的には、貨幣の「等価交換メディア」としての機能は依然として残るでしょうが、「権力誇示メディア」としての機能が衰えていくように予想します。各国の中央銀行が発券する貨幣には、集権的なパワーが備わっていましたし、そのような貨幣は資産家にとってはただ貯めておくだけでも有用性があったと思われます。しかし昨今のiTunes、Gree、Nintendoなどのプリペイド、Suica、Edy、nanacoなどの電子バウチャー、Yahoo!、楽天、Tカードなど、マイレージを含むポイント制度の隆盛や、今後濫発されるだろうBitcoinのような仮想通貨を考えれば、貨幣の在り方は異質なものに変わらざるを得なくなるでしょう。

中央銀行が発券する貨幣に「権力誇示メディア」としての機能があるとはどういう意味でしょうか。例えば、為替が円高になった時に、日本の首相が「強い円は強い日本の象徴だ」とか「日本経済は世界から評価されている」とかと言って胸を張るなら「権力誇示メディア」としての機能があるというのはわかります。でも、国家のプライドを重視する安倍総理ですら円高よりも円安を歓迎しているのが現実でして、それにもかかわらず、なぜ中央銀行券は「権力誇示メディア」なのでしょうか。

こうもり さんが書きました:

私が同じ記事を読んだ折には、ネットの「有料化」よりも「タコ壷化」を強く感じました。確かにクローズドなAppは課金が容易ですが、現在の実情を見渡しても、facebook、Twitter、LINEなどのアプリからCookPad、食べログに至るまで、ほとんどが従来の広告収入型で収益を上げているのに対して、課金は行われておりません。WhatsAppは使用2年目からの課金を果たしていますが、年間99セントというお賽銭程度の低価格です。残念ながらクリス・アンダーソンさんの予想は外れていると言っても良いかと思います。

私もクリス・アンダーソンの予想には賛成しません。但し違う意味で。モバイル向けの課金しやすいクローズドなネットワークと言えば、日本ではNTTドコモのiモードが先駆的な存在です。でもブラウザでウェブが閲覧できるスマートフォンやタブレットが普及すると、はやらなくなりました。もっとも、従来の携帯電話と比べるとましとはいえ、スマートフォンやタブレットにおいても視野に占めるディスプレイの占有率は低いので、それらで PC の大画面向けに作ったサイトを閲覧するのは困難です。それでアプリごとのタコ壺が幅を利かしているのでしょう。

しかし、将来スマート・グラスのようなウェアラブルがモバイルの本流になるなら、視野に占めるディスプレイの占有率が PC なみになるので、PC の大画面向けに作ったサイトを閲覧しやすくなるでしょう。結局のところ、モバイル向けのクローズドなネットワークが幅を利かすのは、モバイルがまだ発展途上にあるからで、タコ壷化が恒久的な流れになるとは見ていません。もちろん、顧客リストの作成や課金といったメリットがあるので、クローズドなネットワーク自体は今後も存続し続けるでしょう。

こうもり さんが書きました:

貨幣が多様化、細分化するのと同様、「タコ壷化」されていくネットの趨勢も、「グローバル化」とは逆のベクトルを指向しています。第三次パラダイムシフトは、お釜の底が割れるような、アドホクラシカルな細分化によって進展すると言っても良いでしょう。もちろん現在は多勢を占めている「権力メディアとしての貨幣」を支持する人々のタコ壷が、今後も存続していくことはあるでしょうが、その規模は縮小の一途を辿るでしょう。身分制度を固持し続ける人々のタコ壷が縮小したのと同じようにです。

アドホクラシーというのは、ビューロクラシー(官僚制)に対する語で、タコ壺的な専門の中で無謬性の神話を守り続ける官僚の硬直性の対極にあるのは、秒単位で間違いを修正する市場経済であろうかと思います。つまり、アドホクラシー対ビューロクラシーというのは、グローバルな市場経済対タコ壺的な行政組織といったところでしょうか。ビューロクラシーからアドホクラシーへ、ナショナルな統制経済からグローバルな市場経済へ、クローズドなネットワークからオープンなネットワークへと向かうのが時代の流れかと思います。細分化といっても村社会の復活ではなくて、あくまでもグローバルな個人主義というように理解したいと思います。

スマートグラス
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2014年1月29日(水) 17:49.

スマートグラスと言えば、グーグルグラスが有名だが、昨日エプソンが発表したモベリオは、グーグルグラスとは異なり、両眼シースルーであり、スマートグラスとヘッドマウントディスプレイを融合したようなデヴァイスとなっている。

エプソンは、メガネのように装着して使用するウェアラブル情報機器である「スマートグラス」の新商品として、シースルーモバイルビューアーMOVERIO(モベリオ)『BT-200AV』、『BT-200』を2014年4月24日より発売いたします。『BT-200AV』は、ブルーレイ/DVDレコーダーなどHDMI®出力端子を搭載した機器と『BT-200』を無線接続できるHDMI®接続用アダプター(「ワイヤレスミラーリングアダプター」)を同梱したモデルです。

モベリオは遠くを見れば見るほど目の前の風景に大きく浮かぶ大画面(20m先に320型相当)で、映像(2D、3D)や情報を楽しむことができます。メガネのように簡単に装着してシースルーで映像を見ながら周囲の状況を確認することができ、さらに動画ファイル連続再生6時間のバッテリー寿命により、場所を選ばずに家の中でも外出先でも、自由な姿勢で視聴することができます。[3]

エプソンは、歩きながらや車を運転しながらの利用は危険なため行わないよう説明書などで呼びかけているが、これができないようではウェアラブルの意味がない。スマホに釘付けになりながら歩いたり、カーナビ画面を見ながら運転するよりも、シースルーのスマートグラスで、実際の視界に仮想現実を重ね合わせる方が安全である。より一層の軽量化とともに歩行中あるいは運転中の使用に耐えられるように機能を改善することが求められる。

ムーディーズによって格付けが「ジャンク」に引き下げられたソニーは、スマートフォンやタブレット端末用に Xperia を、ヘッドマウントディスプレイとして HMZ を別々に開発しているが、こういうことをしている限り、格付け会社が言うように、業績はいつまでたっても改善しないだろう。エプソンを見習って、両者を統合し、シースルーのスマートグラスに開発資源を集中するべきである。

ところで、「将来スマート・グラスのようなウェアラブルがモバイルの本流になるなら、視野に占めるディスプレイの占有率が PC なみになるので、PC の大画面向けに作ったサイトを閲覧しやすくなるでしょう」と書いたが、モベリオで既に実現されているように、仮想大画面でウェブ・ブラウジングができるなら、モバイル向けのサイトを作る必要はなく、PC 向けサイトをそのまま大画面で見ることができる。

Marcus Wohlsen は、スマホやタブレットが PC よりも売れていることを根拠に、ウェブの死を予言した。

ハイパーリンクされ、誰でもいつでもどこからでも平等かつ無料で利用できるワールド・ワイド・ウェブは徐々に消えていくだろう。その代わりデジタル世界は、より自己完結性の高い個々のアプリのドメイン内で生じることになる。アプリの作成者たちが自分のアプリをモバイルOSに柔軟に組み込む力をもつ世界であり、その力は平等ではない。強い者も弱い者もある。そういう世界だ。
[4]

しかし、アップルとサムソンの決算が振るわないことからもわかる通り、スマホやタブレットの需要は既に頭打ちとなっている。未来予想をするなら、スマートグラスがモバイル端末の標準となる時代を念頭に置いてするべきだろう。今後、スマホ向けに代わって、スマートグラス向けアプリが開発されるだろうが、それによってワールド・ワイド・ウェブがなくなることはないだろう。

トップダウン対ボトムアップ
投稿者:こうもり.投稿日時:2014年1月30日(木) 20:10.

「パラダイムとは何か」興味深く読ませて頂きました。

クーンは、“新しい科学的真理が勝利をおさめるのは、それの反対者を納得させ、彼等の蒙を啓くことによってではなく、その反対者が最終的に死に絶え、当の新しい科学的真理に慣れ親しんだ新しい世代が成長することによってである”というマックス・プランクの言葉を引用して、パラダイム間の通約不可能性(incommensurability)を強調している。[5]

特にこの箇所は、勉強になりました。私が「タコ壷が縮小し」ていくとした予想にかなり近い概念だと思いますが、通約不可能だとする説に強い説得力を感じました。この点については永井さんとコンセンサスが取れそうで良かったです。どうしても古いパラダイムにすがる者は新しい変化への適応に遅れを取りがちになるものですよね。既得権益を獲得している層は、自分の成功を守るために保守的な価値観に拘泥しがちです。その構図を私が説く第三次パラダイムシフトに当て嵌めるとどうなるのか、下記の質問にお答えするカタチで説明を試みたいと思います。

永井俊哉 さんが書きました:

中央銀行が発券する貨幣に「権力誇示メディア」としての機能があるとはどういう意味でしょうか。例えば、為替が円高になった時に、日本の首相が「強い円は強い日本の象徴だ」とか「日本経済は世界から評価されている」とかと言って胸を張るなら「権力誇示メディア」としての機能があるというのはわかります。でも、国家のプライドを重視する安倍総理ですら円高よりも円安を歓迎しているのが現実でして、それにもかかわらず、なぜ中央銀行券は「権力誇示メディア」なのでしょうか。

すみません、分かりにくい表現で誤解を与えてしまったようです。私が「権力誇示メディア」と勝手に名付けた機能は、国家権力を誇示するためのものではありません。初回の書き込みの「金銭には権力を媒介するメディアとしての機能もあると思います」の下りで説明した通り、資産家が豪邸や高級車やブランド品を誇示することによって、人々の羨望や信頼を集めたり、権力や地位を確保したりする機能のことです。資産そのものも、持っているだけで権力となるのが今の世の中ですよね。

ですから、本来は何かを買うための「等価交換メディア」としてあるはずのお金が、それを稼ぎ貯める事自体を自己目的化した至上の存在となるのです。格差の拡大する米国を表す際によく使われる比喩、「1%の資産家」たちは、自らのお金を何かに使おうとはしていません。「貧しい者は富める者に跪き、そうすることによりさらに富める者の地位を上げる」というパラドックスの通り、誰もがお金に見向きもしなくなれば、中央銀行の発行する不換紙幣などに貯める価値はありません。

対して、前回例に挙げたような電子バウチャー類は、当初より使うこと、交換されることを目的としたメディアです。「ドルとユーロと円で1億ずつ保有している」という資産家は権力を誇示出来ますが、「Suicaとnanacoと近所の八百屋のポイントカードで1億ずつ」持とうとする資産家はいません。逆にBitcoinなどは投機の対象になったりもしていますから、通貨は多様化しながら、その用途を細分化させています。「権力誇示」の機能も今後残り続けるとは思いますが、それは数あるタコ壷のひとつに過ぎないと言えるほど、小さくなることでしょう。

私がこう考えるきっかけとなったのは、Yahoo!知恵袋のコインです。質問者の勝手気ままな質問に、回答者は意外とも思えるほど丁寧な文面で返答しているので、あのやり取りされているコインはきっとYahoo!での買い物に使えるのだろうな、と思っていたのです。ところが実際には何かと交換出来る訳ではなく、カテゴリーマスターという称号を与えられる名誉にしかならないとのこと。昼夜長時間をかけ、あの長文の解答を綴っている人たちには、現実の貨幣より「等価交換」機能を持たない知恵袋コインの方が価値があるのでしょう。知恵袋コインも、facebookの「いいね」ボタンも、電子バウチャーとはまた異なる、新たな通貨だと定義してみるのも一興です。

マズローを持ち出すまでもなく、人間にとって、人に注目されたい、尊敬されたい、評価されたい、愛されたいという「社会的欲求(所属、承認、自己実現)」は至上命題となり得ます。ネットインフラのおかげで、貨幣というメディアを介さなくても直接、それらの欲求を満たす事ができるようになったのですから、若者がお金に執着しなくなるのは当然です。逆にお金を介した権力誇示の虚しさも十分に膾炙しています。評価されているのは、自分自身の資質ではなく、お金自体なのですから。昨年の夏に世間を騒がせた「バカッター問題」などはその典型で、お金に拘泥し続ける者にとっては、損得勘定の割に合わない理解不可能な現象にしか見えないでしょう。言語が通じないレベルでのパラダイム間の変異が起こっているのです。

永井俊哉 さんが書きました:

しかし、将来グーグル・グラスのようなウェアラブルがモバイルの本流になるなら、視野に占めるディスプレイの占有率が PC なみになるので、PC の大画面向けに作ったサイトを閲覧しやすくなるでしょう。結局のところ、モバイル向けのクローズドなネットワークが幅を利かすのは、モバイルがまだ発展途上にあるからで、タコ壷化が恒久的な流れになるとは見ていません。もちろん、顧客リストの作成や課金といったメリットがあるので、クローズドなネットワーク自体は今後も存続し続けるでしょう。

永井さんはディバイスの特性、特にディスプレイの大きさによって、オープンorクローズドの選択が定まるようにお考えのようですが、確かにスマートフォンの5インチ程度の小さな画面ではクローズドなAppしか選択肢はないでしょう。しかし10インチ前後のタブレットなら、ノートパソコンと比べても遜色はなく、実際初代iPad発売時には、現行のAppを扱うiOSではなく、ぎりぎりまでPC用のOSXの搭載が計画されていたと記憶しております。また、最新のWindows8では、大きなPCのディスプレイ上でメトロモードのクローズドAppを使う事が主眼とされています。どちらもディスプレイ特性による選択ではありませんね。強いて言うならタッチパネルとの親和性を指摘した方が妥当かもしれません。グーグル・グラスでもクローズドAppが採択されるんじゃないかなと私は予想します。

やはり私はアドホクラシー的な消費者、市場のニーズによって決まるものだと思います。前回書いた「タコ壷化」がその1番の理由ですが、さらにトフラーの四半世紀以上前の予測を現状に照らして分析すると、クローズドAppはオープンなW.W.W.から切り出され、コモディティー化を経たモジュールと見なすことができます。多様化とタコ壷化の高度情報化社会に生きるプロシューマーにとっては、そのモジュールの組み合わせによるカスタマイズに魅力があるのかもしれません。好みの壁紙の上に並ぶAppのボタンだけで、自分のライフスタイルを表現できる。そしてその自己表現こそが、前述の「社会的欲求」の充足につながるのです。

永井俊哉 さんが書きました:

アドホクラシーというのは、ビューロクラシー(官僚制)に対する語で、タコ壺的な専門の中で無謬性の神話を守り続ける官僚の硬直性の対極にあるのは、秒単位で間違いを修正する市場経済であろうかと思います。つまり、アドホクラシー対ビューロクラシーというのは、グローバルな市場経済対タコ壺的な行政組織といったところでしょうか。ビューロクラシーからアドホクラシーへ、ナショナルな統制経済からグローバルな市場経済へ、クローズドなネットワークからオープンなネットワークへと向かうのが時代の流れかと思います。細分化といっても村社会の復活ではなくて、あくまでもグローバルな個人主義というように理解したいと思います。

ビューロクラシーと言っても、文字通り「官僚」や「政府」だけを指しているのではありません(永井さんもそうご理解なさっているのかもしれませんが、上記ではあまりにも限定的に使われているようなので)。これまたトフラーの受け売りで言えば、「ビューロクラシー:トップダウン型の意思決定」「アドホクラシー:ボトムアップ型の意思決定」ということではないでしょうか。国であっても、企業であっても、第一次産業と第二次産業の時代はトップダウンであった価値観の流れが、第三次ではボトムアップにシフトするということだと私は理解しています。

そして「ビューロクラシーからアドホクラシーへ、ナショナルな統制経済からグローバルな市場経済へ」という永井さんの予想には私も全く同意しております。ただ私の中ではグローバル産業やグローバル企業は、ビューロクラシー側に区分されます。その理由から前回は『第三次パラダイムシフトは企業の思惑によって牽引されるのではなく』『「タコ壷化」されていくネットの趨勢も、「グローバル化」とは逆のベクトルを指向しています。』と書いたのです。

村社会と言って良いのか、グローバルな個人主義と言って良いのか分かりませんが、私の想定する「タコ壷化」は、官僚組織のタコ壷がひとつだけヒエラルキーの頂点に存在するのではなく、いくつものタコ壷が並列に存在する社会です。今後は価値観も多様化するでしょうし、ライフスタイルも細分化することから、都市に集中している人口も拡散していくことでしょう。「勝ち組」「負け組」「オタク」「スイーツ(笑)」「都会派」「海好き」「山好き」「Jocks」「Geeks」などのタコ壷が、ネット上や実際の地理上に遍在し、通信網や交通網という地下茎でつながる。ノージックのリゾーム社会のようなものです。マスプロ・マスコンサンプション型のグローバル産業は、明らかにトップダウン式の供給能力しか持たず第二次産業時代の遺物となっていくでしょう。第三次の市場経済は、ニッチなタコ壷の需要に応えるSOHOや地産地消など、ボトムアップの細やかなニーズに応えるサービスに細分化されるはずです。

この点においても永井さんと私の間でそれほど大きな意見の相違はないようにも感じるのですが、『つまり、アドホクラシー対ビューロクラシーというのは、グローバルな市場経済対タコ壺的な行政組織といったところでしょうか。』といった書かれ方を見ると、同じ価値基準を持ちながら、軸足を違えて現状を判断しているだけのような気もします。以下のように図式化すると分かりやすくなるでしょうか?

  • 永井さん
    • ビューロクラシー : 政府、官僚、タコ壷、統制経済、クローズドネットワーク
    • アドホクラシー : 市場経済、グローバル化、オープンネットワーク
  • こうもり
    • ビューロクラシー : 政府、官僚、統制経済、グローバル企業、オープンネットワーク
    • アドホクラシー : 市場経済、タコ壷のリゾーム社会、クローズドネットワーク
リゾーム対ツリー
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2014年1月31日(金) 23:01.

こうもり さんが書きました:

すみません、分かりにくい表現で誤解を与えてしまったようです。私が「権力誇示メディア」と勝手に名付けた機能は、国家権力を誇示するためのものではありません。初回の書き込みの「金銭には権力を媒介するメディアとしての機能もあると思います」の下りで説明した通り、資産家が豪邸や高級車やブランド品を誇示することによって、人々の羨望や信頼を集めたり、権力や地位を確保したりする機能のことです。資産そのものも、持っているだけで権力となるのが今の世の中ですよね。

そういう意味で「権力誇示メディア」という言葉を使っているのであるなら、ますますもって、それは政府発行の貨幣とそれ以外の疑似通貨とを区別しなくなります。政府が発行しているか否かにかかわりなく、貨幣には、商品交換、価値測定、価値貯蔵の三機能があり、価値測定と価値貯蔵の機能ゆえに、少なくとも結果的には、大きな価値の貨幣の所有は富の誇示を帰結することがあります。

例えば、茶器や絵画といった骨董品は、政府が発行する通貨ではないけれども、貨幣的な機能を持っていて、「人々の羨望や信頼を集めたり、権力や地位を確保したりする機能」を持っています。他方で、あまり貯蓄をすることができず、政府が発行する通貨を生活必需品を買うための交換手段としてしか使えない人もいます。

「Suicaとnanacoと近所の八百屋のポイントカードで1億ずつ」持とうとする資産家はいませんが、それはこれらの貨幣の用途が限定されているからであって、何にでも使えるデジタルマネーがあるなら、そのマネーで一億円を貯蓄したり、それを誇示したりする人は出てくるでしょう。

人はパンのためにのみ生きているのではないのですから、たんに他人に感謝されたい、あるいはランキングの上位に入って尊敬されたいといった動機から Yahoo! 知恵袋で質問に答えるなど、金銭的には無償の労働をする人もいるでしょう。自分が使えないほどの富を蓄積し、それを自慢するといった行為も、欲望の多様性を考えるなら同様に肯定される行為であって、Yahoo! 知恵袋の話と対比的に考える必要はないでしょう。

実際、企業経営者には、金を稼ぐためというよりは、むしろ自分の事業に社会的な使命を感じて、つまり生き甲斐としてやっているという人も少なくはありません。所属、承認、自己実現といった社会的欲求を満たすための手段として政府発行の通貨を使うこともあれば、そうでないこともあるということです。

こうもり さんが書きました:

ネットインフラのおかげで、貨幣というメディアを介さなくても直接、それらの欲求を満たす事ができるようになったのですから、若者がお金に執着しなくなるのは当然です。逆にお金を介した権力誇示の虚しさも十分に膾炙しています。評価されているのは、自分自身の資質ではなく、お金自体なのですから。

もしもそういう論理が認められるのであるなら、尊敬される非金銭的な仕事をしても、評価されているのは、自分自身の資質ではなく、仕事自体なのだから、虚しさを感じるということになるのではないですか。巨額の遺産を相続して金持ちになったという場合は別としても、自力で金を稼いだ場合は、稼いだ金とその人の資質は切り離せないのだから、「評価されているのは、自分自身の資質ではなく、お金自体」ということにはならないでしょう。

最初の投稿に「車やブランド品を欲する若者の減少」や「デフレにより安価で、安易な生活が担保されたこと」が「資本主義の終焉」の根拠として挙げられていましたが、これはデフレを長期間放置していた日本においてみられる現象であって、世界的なトレンドとして語ることはできません。世界的な出来事である情報革命と特殊日本的な出来事は区別して考える必要があります。

こうもり さんが書きました:

永井さんはディバイスの特性、特にディスプレイの大きさによって、オープンorクローズドの選択が定まるようにお考えのようですが、確かにスマートフォンの5インチ程度の小さな画面ではクローズドなAppしか選択肢はないでしょう。しかし10インチ前後のタブレットなら、ノートパソコンと比べても遜色はなく、実際初代iPad発売時には、現行のAppを扱うiOSではなく、ぎりぎりまでPC用のOSXの搭載が計画されていたと記憶しております。また、最新のWindows8では、大きなPCのディスプレイ上でメトロモードのクローズドAppを使う事が主眼とされています。どちらもディスプレイ特性による選択ではありませんね。強いて言うならタッチパネルとの親和性を指摘した方が妥当かもしれません。グーグル・グラスでもクローズドAppが採択されるんじゃないかなと私は予想します。

ディスプレイの大きさが影響を与えるのは、PC 向けにだけデザインされたサイトのブラウジングであって、オープン/クローズドの選択と直接に関係することはありません。実際のところ、PC 向けにデザインされたサイトでも、ログインしないと閲覧できないという意味でクローズドなサイトはたくさんあります。

なお、最近では、端末のサイズに合わせてサイトデザインを自動的に変える Responsive web design が採用されるようになったので、モバイルの普及でウェブ・ブラウジングが廃れることはなさそうです。私もまだシステム論ブログでしか採用していないのですが、いずれすべてのサイトで取り入れる予定です。

揚げ足取り的な指摘はしたくないのですが、スマート・グラスの場合、直接的なタッチパネルは採用されないでしょうから、クローズドなアプリが主流になると予想する根拠にはなりません。また、タブレットを意識した Windows 8 のメトロ・ユーザーインターフェースは評判が悪くて、デスクトップ・ユーザーインターフェースに戻して使っているユーザが多いようです。

もっとも、初心者に使いやすい直観的な操作方法は今後とも積極的に採用されるでしょう。コマンドライン・インターフェースではギークしか使わなかったコンピュータも、グラフィカル・ユーザーインターフェースを採用することで大衆化したように、今後もより直観的な操作が可能となることで、より多くの人に端末が普及することでしょう。でもそれがブラウザの死につながる論理的な理由はありません。

こうもり さんが書きました:

やはり私はアドホクラシー的な消費者、市場のニーズによって決まるものだと思います。前回書いた「タコ壷化」がその1番の理由ですが、さらにトフラーの四半世紀以上前の予測を現状に照らして分析すると、クローズドAppはオープンなW.W.W.から切り出され、コモディティー化を経たモジュールと見なすことができます。多様化とタコ壷化の高度情報化社会に生きるプロシューマーにとっては、そのモジュールの組み合わせによるカスタマイズに魅力があるのかもしれません。好みの壁紙の上に並ぶAppのボタンだけで、自分のライフスタイルを表現できる。そしてその自己表現こそが、前述の「社会的欲求」の充足につながるのです。

プロシューマーもトフラーの言葉ですね。トフラーによれば、第二の波の到来により、消費と生産が分離され、第三の波の到来により両者が融合すると予言しました。しかし、これは第二の波以前の状態への単純な回帰ではありません。ネット上では、自分用に作ったソフトが他者にも利用されるというように、生産者と消費者の区別が不明確になっているという面はあります。しかし、工業革命以前では、人々はローカルなコミュニティに閉じ込められ、外部との交流は希薄だったのに対して、オンラインユーザは、ネットを媒介にして世界中の人とつながっています。この意味でも情報社会の人々は、タコ壺に閉じこもっているとは言えないと思います。

こうもり さんが書きました:

村社会と言って良いのか、グローバルな個人主義と言って良いのか分かりませんが、私の想定する「タコ壷化」は、官僚組織のタコ壷がひとつだけヒエラルキーの頂点に存在するのではなく、いくつものタコ壷が並列に存在する社会です。今後は価値観も多様化するでしょうし、ライフスタイルも細分化することから、都市に集中している人口も拡散していくことでしょう。「勝ち組」「負け組」「オタク」「スイーツ(笑)」「都会派」「海好き」「山好き」「Jocks」「Geeks」などのタコ壷が、ネット上や実際の地理上に遍在し、通信網や交通網という地下茎でつながる。ノージックのリゾーム社会のようなものです。マスプロ・マスコンサンプション型のグローバル産業は、明らかにトップダウン式の供給能力しか持たず第二次産業時代の遺物となっていくでしょう。第三次の市場経済は、ニッチなタコ壷の需要に応えるSOHOや地産地消など、ボトムアップの細やかなニーズに応えるサービスに細分化されるはずです。

リゾームというのは、ドゥルーズとガタリの用語で、ツリーと対比された、脱中心化されたノマド的なモデルです。官僚システムは典型的なツリー型の構造を有し、権限と職務の専門分化、上意下達の階層構造、形式的な文書主義、権威主義を特徴とする垂直統合型のシステムで、工業社会において支配的でした。これに対して、インターネットに象徴される情報社会のシステムは、水平分業的で、リゾームと呼んでよいような脱中心化された動的なシステムです。

こうもりさんが「タコ壺」というメタファーで何をイメージしているのかよくわかりませんが、普通このメタファーは、横のつながりが希薄な、しかし縦方向には長い「タテ社会」を象徴する言葉として使われます。この意味で、縦割り行政をしている縄張り意識の強い官僚たちは、タコ壺の住民になぞられることができます。情報革命は、タテ社会的な官僚システムを解体するのですから、タコ壺とかクローズド・システムとかといった言葉は情報社会にはふさわしくないと思います。

目下、インターネット上でクローズドな世界ができつつありますが、これが情報社会のトレンドであるとは思いません。もともとインターネットは、研究者間のコミュニケーション・ツールでしたが、そこに、エンタテインメントやビジネスの世界が入り、さらにはクローズドなコミュニティまで入ってきました。こうした世界はもともとネットの外部でリアルに存在していましたが、インターネットが成長して、リアルの社会に深く浸透するにつれて、ネットの中に入ってきたのであって、情報社会になって初めて誕生したものではありません。むしろ、ネットに参入することで、ローカルでクローズドであった社会が、グローバルでオープンなネットワークに組み込まれていったと見るべきです。

私が過去に書いたものの中で、「情報化時代のパラダイムシフト」というトピックにいちばん近いのは、「情報革命は経営と雇用をどう変えるか」であろうかと思います。『脱工業社会の到来 』によって経営や雇用が問う代わるかを論じたものです。2000年1月29日とずいぶん前に書いたものですが、基本的に私の考えはこの頃と変わっていないんで、よろしければ参照してください。

話し合いのためのお話
投稿者:こうもり.投稿日時:2014年2月04日(火) 18:21.

毎回丁寧なお返事を頂いて大変ありがたいのですが、やはり以前の『日本の大学は英語で授業を行うべきか』の時と同じように、議論を進める上での齟齬が大きくなってきているようです。単に私の読解力が足りないだけかもしれませんが、永井さんの真意を掴むのに困難を感じています。このようなメタな議論は、本筋から外れるだけですので今回限りにさせて頂くつもりですが、以下、3点ほど指摘させてください。

1.「パラダイムシフトに関する両者の認識について」

永井俊哉 さんが書きました:

もちろん、ネット上には収益を求めないコンテンツあるいはサービスの提供者もいます。しかし、インターネットが普及する前から非営利団体による活動は存在したし、収益は求めないにしても、運営費は寄付などで賄われているのだから、貨幣経済を否定する動きとは言えないでしょう。

こうもり さんが書きました:

確かにネット以前より非営利団体は存在していますね。しかしそれは、貨幣経済が主流となる前の封建時代から貨幣が存在していたのと同様のことではありませんか。私が想定しているパラダイムシフトは、前述したように、既存の価値観を完全否定するものではありませんし、未知の価値観が突然出現するようなものでもありません。

永井俊哉 さんが書きました:

「‪パラダイムとは何か‬」で「革命が非連続に見えるのは、競合するパラダイムの権力関係が急激に変化するからであって、新しいパラダイムが無から生じることはない」と書いたとおり、私もそのように認識しています。

まず初回から展開されたこのやりとりが謎です。永井さんが「私もそのように認識」されていたのなら、我々は「新パラダイムは旧パラダイムを否定する必要はない」ということで最初から合意していたことになるのですから、この話し合い自体が必要なかったということにはなりませんか?

なぜ、「無料化はパラダイムシフトなのか」というタイトルにされて、本文中でも「貨幣経済あるいは資本主義を否定するような動きとは言えませんし、」とか、「貨幣経済を否定する動きとは言えないでしょう。」とか、おっしゃられていたのかが分かりません。

2.「”The Web Is Dead”を引用された意図」

続く箇所では永井さんはクリス・アンダーソンさんの記事を引用された上でこのようにおっしゃっていました。

永井俊哉 さんが書きました:

無料のオープンなウェブをブラウズする PC に代わって、アプリと親和性の高いモバイル機器が主流になるにつれて、ネットユーザは課金が容易なアプリに拘束されるようになるというのです。もちろん、アプリにも無料のものもあるし、ウェブにも昔から有料サイトはありましたが、今後は有料のコンテンツやサービスが増えるかもしれないということです。こうした予想は当たると思いますか。

初回の「無料化はパラダイムシフトなのか」というタイトルの中で、しかも『ところで、「前提から間違っている」と言うつもりはありませんが、』と断り書きをされた上だったので、私は永井さんが「こうもりが無料化に向かっていると主張するWebにも、有料化の動きが見える」と指摘されるつもりで、上記のように書かれたのだと思ったのです。ですから、

こうもり さんが書きました:

私が同じ記事を読んだ折には、ネットの「有料化」よりも「タコ壷化」を強く感じました。確かにクローズドなAppは課金が容易ですが、現在の実情を見渡しても、facebook、Twitter、LINEなどのアプリからCookPad、食べログに至るまで、ほとんどが従来の広告収入型で収益を上げているのに対して、課金は行われておりません。WhatsAppは使用2年目からの課金を果たしていますが、年間99セントというお賽銭程度の低価格です。残念ながらクリス・アンダーソンさんの予想は外れていると言っても良いかと思います。

と現在の実情を具体的に挙げて、説明差し上げたのです。すると永井さんからは、

永井俊哉 さんが書きました:

私もクリス・アンダーソンの予想には賛成しません。但し違う意味で。

という返信を頂き、混乱してしまいました。なぜご自分が賛同されていない記事を引用されたのでしょうか。このような不思議なやりとりは、前回の時にも起こったように記憶しております。

3.「クローズドアプリの普及要件について」

永井俊哉 さんが書きました:

私もクリス・アンダーソンの予想には賛成しません。但し違う意味で。モバイル向けの課金しやすいクローズドなネットワークと言えば、日本ではNTTドコモのiモードが先駆的な存在です。でもブラウザでウェブが閲覧できるスマートフォンやタブレットが普及すると、はやらなくなりました。もっとも、従来の携帯電話と比べるとましとはいえ、スマートフォンやタブレットにおいても視野に占めるディスプレイの占有率は低いので、それらで PC の大画面向けに作ったサイトを閲覧するのは困難です。それでアプリごとのタコ壺が幅を利かしているのでしょう。

しかし、将来スマート・グラスのようなウェアラブルがモバイルの本流になるなら、視野に占めるディスプレイの占有率が PC なみになるので、PC の大画面向けに作ったサイトを閲覧しやすくなるでしょう。結局のところ、モバイル向けのクローズドなネットワークが幅を利かすのは、モバイルがまだ発展途上にあるからで、タコ壷化が恒久的な流れになるとは見ていません。もちろん、顧客リストの作成や課金といったメリットがあるので、クローズドなネットワーク自体は今後も存続し続けるでしょう。

続く文では上記のように、クローズドアプリに関しての永井さんの見解が説明されています。私程度の国語力ではどう読んでも、「視野に占めるディスプレイの占有率は低い(=画面が小さい)」ので「それでアプリごとのタコ壺が幅を利かしているのでしょう(=クローズドアプリが選択されている)」としか読み取りようがないのですが、私が、

こうもり さんが書きました:

永井さんはディバイスの特性、特にディスプレイの大きさによって、オープンorクローズドの選択が定まるようにお考えのようですが、確かにスマートフォンの5インチ程度の小さな画面ではクローズドなAppしか選択肢はないでしょう。しかし10インチ前後のタブレットなら、ノートパソコンと比べても遜色はなく、実際初代iPad発売時には、現行のAppを扱うiOSではなく、ぎりぎりまでPC用のOSXの搭載が計画されていたと記憶しております。また、最新のWindows8では、大きなPCのディスプレイ上でメトロモードのクローズドAppを使う事が主眼とされています。どちらもディスプレイ特性による選択ではありませんね。

と、書くと永井さんは、

永井俊哉 さんが書きました:

ディスプレイの大きさが影響を与えるのは、PC 向けにだけデザインされたサイトのブラウジングであって、オープン/クローズドの選択と直接に関係することはありません。実際のところ、PC 向けにデザインされたサイトでも、ログインしないと閲覧できないという意味でクローズドなサイトはたくさんあります。

と返答されました。これにはまったく途方に暮れてしまいました。ディスプレイの大きさでないとするならば、永井さんはクローズドApp隆盛の理由をどう分析されているのでしょう。失礼を承知でご指摘させて頂ければ、それこそアドホック(場当たり的)な反論をされているだけで、振り回されてしまっているような感覚がぬぐえません。

解説します
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2014年2月05日(水) 06:51.

こうもり さんが書きました:

まず初回から展開されたこのやりとりが謎です。永井さんが「私もそのように認識」されていたのなら、我々は「新パラダイムは旧パラダイムを否定する必要はない」ということで最初から合意していたことになるのですから、この話し合い自体が必要なかったということにはなりませんか?

なぜ、「無料化はパラダイムシフトなのか」というタイトルにされて、本文中でも「貨幣経済あるいは資本主義を否定するような動きとは言えませんし、」とか、「貨幣経済を否定する動きとは言えないでしょう。」とか、おっしゃられていたのかが分かりません。

パラダイム・シフトとしての情報化とは、“旧パラダイム=資本集約型工業社会 → 新パラダイム=知識集約型情報社会”のことであり、「新パラダイムは旧パラダイムを否定する必要はない」のだから、旧パラダイムが貨幣経済で、資本主義だからといって、新パラダイムがそれを否定する必要はないということです。

こうもり さんが書きました:

初回の「無料化はパラダイムシフトなのか」というタイトルの中で、しかも『ところで、「前提から間違っている」と言うつもりはありませんが、』と断り書きをされた上だったので、私は永井さんが「こうもりが無料化に向かっていると主張するWebにも、有料化の動きが見える」と指摘されるつもりで、上記のように書かれたのだと思ったのです。

私は、クリス・アンダーソンの記事に賛同していないからこそ、“「前提から間違っている」と言うつもりはありません”と言ったのです。賛同しているなら、前提から間違っているという反論になってしまいます。私は反論しているのではなくて、こういうネット界隈で話題になっている意見に対してどう思いますかと聞いただけです。

こうもり さんが書きました:

永井さんはディバイスの特性、特にディスプレイの大きさによって、オープンorクローズドの選択が定まるようにお考えのようです

「モバイル向けアプリはクローズド・ネットワークである」と言う命題は正しいけれども、その逆の命題、「クローズド・ネットワークはモバイル向けアプリである」は正しくありません。その反証例が、ログインしないと閲覧できないという意味でクローズドな PC 向けサイトということです。そうしたサイトがクローズドであるのは、ディスプレイの大きさとは無関係です。「大画面向けブラウザ→小画面向けアプリ」というトレンドと「オープン・ネットワーク→クローズド・ネットワーク」というトレンドは、概念的に区別するべきだという趣旨で、こういうことを申し上げていることを理解してください。

メタユートピア
投稿者:こうもり.投稿日時:2014年2月07日(金) 18:23.

早速の解説ありがとうございます。読みながら考えたのですが、もしかすると(Quote)で囲みながら進めて行く議論の形式が良くないのかもしれないと思うに至りました。他の記事での永井さんと他の方との議論を見ても、どうしても相手の意見に(Quote)で答える形式を続けて行くと、細かに分断された(Quote)の応酬に発展しがちで、議論が平行線になったり、空中分解したりしているように思えます。宣言した通りメタな議論は前回の1度きりで終わりにするつもりですので、今回は私の予想する第三次パラダイムシフトについて、「メタユートピア」をキーワードにまとめてみたいと思います。

まず現時点で「タコ壷化」というワードに起因する齟齬が生じているように思います。永井さんはおそらく政府組織や会社組織の閉鎖性と縦型の従属関係を表す用語として「タコ壷」を定義されているのだと思います(ネットで検索をかけると、確かに大人の世界ではそのような使われ方も多いようですね)。対して私は、自分の好きなサブカル界隈でよく使われる「大きな物語の崩壊→価値観の細分化」という定義で同じ語を使用していました。つまり横のつながりと脱中心化を意味する語として使用していたので、使う用語は違っても、我々の予測する未来に大きな相違はないのかもしれません。そもそも私はこの用語に特に拘っている訳でもありませんので、今後は宮台真司さんの「島宇宙化」という言葉を使わせて頂くことにします。過去の私の文も「タコ壷化」を「島宇宙化」に置き換えると、意味が通じやすくなるかもしれません。特に下記の文は、メタユートピアの全容を大まかに説明しておりますので、再読頂けると幸いです。

こうもり さんが書きました:

村社会と言って良いのか、グローバルな個人主義と言って良いのか分かりませんが、私の想定する「島宇宙化」は、官僚組織のタコ壷がひとつだけヒエラルキーの頂点に存在するのではなく、いくつもの島宇宙が並列に存在する社会です。今後は価値観も多様化するでしょうし、ライフスタイルも細分化することから、都市に集中している人口も拡散していくことでしょう。「勝ち組」「負け組」「オタク」「スイーツ(笑)」「都会派」「海好き」「山好き」「Jocks」「Geeks」などの島宇宙が、ネット上や実際の地理上に遍在し、通信網や交通網という地下茎でつながる。ノージックのリゾーム社会のようなものです。マスプロ・マスコンサンプション型のグローバル産業は、明らかにトップダウン式の供給能力しか持たず第二次産業時代の遺物となっていくでしょう。第三次の市場経済は、ニッチな島宇宙の需要に応えるSOHOや地産地消など、ボトムアップの細やかなニーズに応えるサービスに細分化されるはずです。

それとまた、私と永井さんの間では時間軸上でのすれ違いもあるように思われます。これまでのお話からすると、永井さんはパラダイムシフトが起こる時期を前世紀から今世紀をまたぐ数十年で捉えていられるようです。PCの普及からネットインフラの普及が起こり、経済がグローバル化して行った2000年をまたぐ数十年です。もちろんその見方の方が一般的ですし、正しいと思います。しかし私が予測している第三次パラダイムシフトはもう少し先、今から30年後か50年後か、近未来と言っても良い2050年前後を射程にしております。ですから私の中では、ネットインフラの整備も第二次産業的事業であり、グローバル化も(大資本の台頭ですから)旧パラダイムでの現象にカテゴライズされます。永井さんにも私と同じ考え方をして欲しいとは思いませんが、せめて時間軸の上でだけは、グローバル化や永井さんの主張される民営化や市場経済化が進んだその先の未来に、視座を合わせて頂ければと願います。

そしてようやく「メタユートピア」ですが、この言葉もロバート・ノージックを読み齧った時から、私自身の考え方や現実の事象を照らし合わせながら、ずいぶんと頭の中で捏ねくり廻してまいりましたので、元々のノージックの定義からは外れた、また多少肉付けされたような私独自の概念になると思いますのでご了承ください。

この先の社会がアドホクラシー的なボトムアップの選意思決定を選択するようになるだろうという予測は、私と永井さんの間で見解の一致を得ていると思います。私はさらに過激に、リオタールの「大きな物語の崩壊」は今後も進行していくと思いますので、未来はビックブラザーもビューロクラシーも一顧だにさえ値しなくなる、つまりノージックの言うメタユートピアの外枠(メタ)は無視しても良いほど弱いバインドになると予想します。そしてその拘束力の弱い枠の中で、各種の価値観を共有した人々が「島宇宙」を形成し、交通のインフラやネットインフラによって地下茎(リゾーム)状に繋がる社会が形成されるだろうと予想します(具体的には上記の引用の通りです)。

永井さんのお勧め下さった『情報革命は経営と雇用をどう変えるか』にも記載がありましたが、現在既に問屋や小売店は衰退化を始めていますので、『インターネット通販と電子マネーの普及は、生産者と消費者を直接結びつけ、宅配会社を除く流通業を没落させるであろう。』という予測は既に現実のものとなっていますし、私の言う「交通網のリゾーム」と概念を同じくしていると思います。またさらに私は「ネットのリゾーム」により、物品の流通さえも減らすことができると予測しています。それはもちろん電子書籍などの普及によって、本やCDなどの現物を配送する必要がなくなるということだけではありません。再度SF的な発想で言えば、物質転送装置のような状況も現実のものとなりつつあるからです。

分かりやすい例を挙げれば3Dプリンターです。外国で作られた製品を日本まで輸送する必要はなく、ネットでデータを転送すれば、製品を再構築できる訳ですから、これが現在の樹脂や金属の加工だけでなく、木材や漆器や繊維などあらゆる素材の応用に広がれば、それは自分で物をカスタマイズしたいプロシューマー達にとって理想的な環境を提供するでしょう。そのようなハイテク機器だけでなく、他にも農作物のような第一次産業の産物であっても、データを送信することで遠隔地での再生産が可能ですから、現物の青果野菜を出荷する必要はなくなります。似たような気候、土壌であれば、ブランド野菜なども種子と育成法のデータを共有すれば良いのです。余暇の増加やロハスなどの自然志向のブームにより、今後もDIYや家庭菜園などの価値を共有する「島宇宙」が拡散することも予想されます。

この変化は流通だけでなく、消費の在り方にも影響を与えます。ちょうど話題に挙がっていた「電子バウチャー」や「クローズドアプリ」の多様化、細分化も、第三次パラダイムにとっては当然の帰結であると言えます。第二次産業時代では各メーカーが均一の品質を持つ製品を大量生産することで廉価をはかり、巨大なグローバル産業が台頭するまでの成果をおさめました。それは第三次であったはずの情報メディアでも同じで、昭和時代の「お化け視聴率」などにそのトレンドは見られます。オープンネットワークにおけるYahoo!やGoogleなどの急成長も、私は第二次産業時代の名残だと考えています。第三次産業は逆に多様化の時代ですから、今後もバウチャーは細分化していくでしょうし、Bitcoinなどは永井さんのおっしゃる『何にでも使えるデジタルマネーがあるなら、そのマネーで一億円を貯蓄したり、それを誇示したりする人は出てくるでしょう。』という予測を見事に体現していると思います。そしてこれはやはり永井さんの主張に反してしまいますが、「クローズドアプリ」のトレンドの方も今後止まることはないでしょう。

永井さんもご理解の事だとは思いますが、”The Web Is Dead”と言っても、オープンネットワーク自体が本当に死ぬ(無くなる)ということではありませんよね。以前私が『クローズドAppはオープンなW.W.W.から切り出され、コモディティー化を経たモジュールと見なすことができます。』という表現を使用した通り、オープンネットワーク上で、各用途に簡便なように切り出されたのがクローズドアプリです。言うまでもなくすべてのクローズドアプリは、依然としてW.W.W.を利用しています。これをそのままノージックに当て嵌めれば、メタユートピアの外枠がオープンネットワーク、「島宇宙」がクローズドアプリという構図になります。経済で言えば、グローバル市場経済がメタユートピアの外枠、その中で仮想通貨や個人流通が「島宇宙」を形成していくというイメージを私は想定しております。

何度もクローズドアプリはディバイス特性ではなく、消費者のニーズによって普及しているのだと論じているように、完成形に近い市場経済では、巨大メーカーが大量生産による単一の製品を消費者に押し付けるのではなく、小さな生産者(小さな政府みたいですね)が多様な製品を供給し、各「島宇宙」に住む消費者がそれぞれの嗜好によって小さな消費を行うようになる。ニッチやロングテイル的な消費形態。それに付随して、通貨の在り方も多様化し、「権力誇示メディア」としてのお金の価値も、小さな「島宇宙」のひとつに吸収されていく。そのようなビジョンを私は予感しております。

最後に但し書きとして。今回「メタユートピア」という用語を多用しましたが、あくまでも私は第三次パラダイムシフトを真のユートピアの到来のように楽観的には捉えてはおりません。大きな物語が各島宇宙へと分化する中で、新興宗教や疑似科学などがサイバーカスケードによって跳梁跋扈する、結構なディストピアになるんじゃないかとも危惧しております。

マルチバース
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2014年2月09日(日) 21:40.

こうもり さんが書きました:

私と永井さんの間では時間軸上でのすれ違いもあるように思われます。これまでのお話からすると、永井さんはパラダイムシフトが起こる時期を前世紀から今世紀をまたぐ数十年で捉えていられるようです。PCの普及からネットインフラの普及が起こり、経済がグローバル化して行った2000年をまたぐ数十年です。もちろんその見方の方が一般的ですし、正しいと思います。しかし私が予測している第三次パラダイムシフトはもう少し先、今から30年後か50年後か、近未来と言っても良い2050年前後を射程にしております。

私が考えるパラダイム・シフトとしての情報革命の転換点は、1973年頃です。30~50年後の世界がどうなっているかは予測できませんが、1973年以降のトレンドは今後も続くと予想します。情報革命は、情報技術革新とは異なり、システム全体の根本的な変革ですから、そのトレンドが簡単に変わることはないでしょう。

ジャン・フランソワ・リオタール(Jean-François Lyotard; 1924 – 1998年)が『ポストモダンの条件』で、「大きな物語の終焉」を語ったのは、1979年のことで、1973年以降のトレンドを意識してのことかと思います。たしかに、人々が信じる物語は多様化しつつありますが、メタレベルで一つの大きな物語を語ることは可能です。実際、パラダイム・シフトとしての情報革命という話自体大きな物語です。

キリスト教は神による来世での魂の救済という大きな物語で、近代啓蒙主義は理性による無知からの解放という大きな物語で、マルクス主義は共産主義革命による搾取労働からの解放という大きな物語で人々を魅了しました。人々を大きな物語から解放しようとするリオタールのディスクール自体も大きな物語の一つだから、そういう意味では大きな物語がなくなったとは言えません。

これは趣味的な話ですが、情報社会の多様性を表す言葉として、「タコ壺」とか「島」のような狭さ(前近代的な共同体の物理的狭さ)を感じさせる言葉は使いたくありません。私としては、マルチバースという流行語を使いたい。多宇宙と訳されていますが、ユニバースが一行の詩であるのに対して、多数の行の詩という意味を持たせています。

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マルチバースのイメージ図。

その先駆けとなったエヴェレットによる量子力学の多世界解釈が評価されるようになったのも1970年代からです。本来は物理学の用語ですが、この宇宙の中にさらにたくさんの世界があるというようにフラクタルな繰り返しを認めることで、物理学以外の分野にも転用して使ってはどうかと考えています。

構造から実存へ
投稿者:こうもり.投稿日時:2014年2月12日(水) 20:44.

私はパラダイムシフトはもっと長い期間をかけて、ゆっくりと起こるものだと考えます。永井さんのおっしゃる1973年がどういった意味での情報革命の年だったのかは存じ上げませんが、前回のパラダイムシフト(第一次から第二次へ)も、その転換をある特定の年に限定するのは困難です。蒸気機関の発明の年なら何年、市民革命の始まった年なら何年、と特定することは可能です。しかし、技術革命であっても18世紀中期〜19世紀前半、社会革命なら英・仏の市民革命から、明治維新、辛亥革命・ロシア革命まで二百年近いスパンがあります。大きなシフトは、技術や社会制度だけでなく、エネルギーや文学・芸術、哲学までをも含む多岐に渡る分野での変革を伴います。そもそも我々は「通約不可能性」によって、パラダイムシフトは世代交代を伴うような変化であるということで、見解を一致させていたはずですから、そのシフトをある年に特定するのには矛盾がありませんか。

その後のベクトルを決めるような転換点という意味であっても、私は今回のパラダイムシフト(第二次から第三次へ)を、ノイマンのコンピューター発明の年にしたら良いのか、ポストモダン哲学の発祥(ベンヤミン?)にしたら良いのか、判断に困ります。もちろん変化のエネルギーが閾値に達し、どこかでなだれ込む様な変化が起こることはあり得ます。そういう意味で私は「お釜の底が割れるような」という表現を好んで使うのですが、江戸時代中期から発達していた貨幣経済が明治維新を起こすまでも百年を要していますし、当時の封建的価値観が縮減して行って、現在のように小さな「島宇宙(マルチバース?)」のひとつになるまでも、かなりの期間(終戦あたりまで?)を要したのではないでしょうか。やはり私は、今回のパラダイムシフトを、近未来まで見据えた長い射程距離で考えたいと思います。

用語としては、私は拘りがないものですから、永井さんが提案して下さっている「マルチバース」という言葉を今後こちらでは使用しようと思います。そして私の提案していたリゾーム、メタユートピア型の未来像はご理解頂けたと考えてよろしいでしょうか。ただ、私の中では「島」「タコ壷」という言葉の持つ閉鎖感も、単なる趣味的な問題ではなく、これらの用語が(無意識的にせよ)選択され、普及するようになった要因は考察に値するように思われます。「前近代の共同体の物理的な狭さ」はもちろん近代化によって解消されていますが、今度は人々が「共同体の精神的な狭さ」を自ら指向するようになったのではないか。第三次パラダイムシフトは構造主義から実存主義への転換なのではないかという観点から、説明を続けてみたいと思います。

これまでの議論で私がパラダイムシフトの兆しとして例示していた「ネット内の無償化の流れ」「権力誇示メディアとしてのお金の衰退」「Yahoo!知恵袋の評価」「車やブランド品を欲する若者の減少」や「デフレにより安価で、安易な生活が担保されたこと」に対して、永井さんからは「特に新しい動きではない」「単なる多様性のひとつに過ぎない」「日本国内だけの現象で世界的な変化ではない」という主旨のご批判を頂いてまいりました。しかしこれらはあくまでも表層化された「例」であって、その根底には構造主義から実存主義への大きな流れがあると考えます。

永井さんがエントロピーをテーマにシステム論を展開されているように、私は若い頃からこの「構造主義」と「実存主義」という観念に取り憑かれてまいりました。また例によって長年、考え捏ねくり廻し過ぎたせいで我流の拡大解釈がなされていますので、大雑把に私の中でのこの2つの対立概念をまとめてみます。

  • 構造主義 : 相対的、客観的事実、理数系学問、ロゴス
  • 実存主義 : 絶対的、主観的価値、人文系学問、パトス

哲学を専門とされている永井さんからすれば笑っちゃうような区分かもしれません。哲学界を二分したこの大論争も「構造主義」の勝利で決着を見たことも、その後の「ポスト構造主義」に発展していったことも一応は存じ上げておりますが、私は無謀にも今後、実存主義の復活があるのではないかと予見しています。

それは言うなれば産業革命以降の第二の波を牽引した「科学」の敗北です。数学や科学は、ある命題の「真・偽という事実」を判別するのには特化されたシステムです。しかし「善・悪という価値」を識別することはできません。「存在」と「当為」の違いと言っても良いかもしれません。科学や構造主義的な概念は、我々の生活や文化や学問を劇的に発展させましたが、我々の生きる意味や、生の価値に答を与えてはくれた訳ではありません。逆に剥奪したと言っても過言ではありません。

少しベタな言い方をすれば、第二次時代の我々は、偏差値や年収などの数値を上げるために、人生の大半の時間を費やすことを余儀なくされていました。際限のない数字を追いかける無間地獄のような受験戦争・出世競争は、手段・方便であるはずの金銭を自己目的化し、人間をその下に隷属化させました。ワーカーホーリックで定年を迎える頃には無気力な抜け殻が残るだけの生き方。前時代、封建時代の「士は己を知る者の為に死す」というような武士道・騎士道精神、ミンネ奉仕の価値観の方がよほど人間的で崇高であったとさえ感じられます。

同じ事を少しメタに言えば、構造主義とは単に言語学や人類学などの文系学問に数学、科学的手法を持ち込んだ概念にすぎません。それ自体は20世紀前半の比較的新しい概念ですが、数学や自然科学はギリシャ以前の太古から存在し、産業革命を駆動する源となりました。それらの影響力は絶大で、絶対的な存在であったはずの神を殺し、絶えず交換を繰り返さないと倒れてしまう経済を人間活動の中心に据えさせ、ポスト構造主義の発展に至っては芸術や倫理や文学までをも数値化・相対化に呑み込もうとする勢いです。ひいては我々も、数字という相対的指標を目標に、より多く、速く、遠くまでという競争に明け暮れ、効率や損得勘定を基準に選択を繰り返しながら、結果自らをいつでも交換可能な存在に貶める。特に友情や恋愛、家族や親子など絶対的であったはずの人間関係までもが、相対化され交換可能になり、少子化、離婚、未婚、孤独死などの社会問題を引き起こしています。

先月お隣の中国における自殺者数は日本の36倍だというニュースを読みましたが、資本主義化以来拍車のかかる過当競争や拝金主義がその主な原因だという分析が添えられていました。一方ある程度の発展を遂げた先進国では、脱効率、脱マスプロ、脱中心化の波がずいぶん前から起こっています。ボランティアや環境への配慮、フェアトレード、ペイフォワード、QOL、スローフード、その例は枚挙に暇がありません。車社会の米国からでさえ、若者の車離れが報告されています。日本国内だけのトレンドではありませんね。特に最近良く使われる「持続可能な」というキーワードには、巨大科学などに背を向けようとする新しいパラダイムの意志を感じます。

背を向けた結果、「タコ壷」や「島」などの閉鎖性を自ら希求するのではないでしょうか。圧倒的な数量、広さ、距離、速度の海に溺れ、雲散霧消しないように壷や島にすがりつく、相対的な評価よりも、絶対的な価値を求めているのです。ただ「マルチバース」のverseが韻文、詩であるとする永井さんの解釈にも、私は強く魅力を感じました。永井さんも「物より知」、「数量よりも質」の時代になると論じられていましたね。やはり人は、自らのレゾンデートル、生きる意味を、数式やロジックなどに求めるのではなく、一篇の詩に求めるのかもしれません。

1973年体制
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2014年2月13日(木) 07:24.

1973年は情報革命が起きる転換点ですが、もちろんこの年にすべてが変わったというわけではありません。この年のあたりを転換点として今日にまで続く変革のトレンドが始まったということです。1973年という年がなぜ転換点であるのかに関しては、「現代のグローバル・スタンダードは何か」でも書きましたが、ここで改めて説明しましょう。

1973年には、以下のような重要なイベントが起きています。

  • 1月、パリでベトナム和平協定調印(ベトナム戦争からの米国の撤退)
  • 2月、スミソニアン体制崩壊(為替の変動相場制への移行)
  • 10月、第四次中東戦争と石油危機(インフレ時代の到来)

米国のベトナム戦争からの撤退は、第二次世界大戦から始まった戦争ケインズ主義の終焉を象徴し、為替が変動相場制へ移行したことは、経済のボーダーレス化と財政政策の無効化をもたらし、石油危機をきっかけにして始まったインフレは、福祉国家のイデオロギーを揺さぶりました。1973年は、大きな政府から小さな政府へ、国際経済からグローバル経済へという現在にまで続くトレンドの開始を象徴するとしなのです。

1970年代は、資源問題とともに環境問題が意識された時期です。工業革命(産業革命)以降成長を続けた資本主義が曲がり角に達し、成長の限界と弊害が議論された時代でもあります。限界に達した工業社会をどう乗り越えるのかが議論され、そのとき二つの解決方法が提示されました。一つは、近代的な工業社会からプレ近代的な農業社会へと回帰するエコロジカルな方向であり、もう一つはポスト近代的な情報社会へと新たなパラダイムへとシフトする方向です。

私が見るところ、こうもりさんの考えは、前者の方向ではないかと思えます。私は後者の方向でのパラダイム転換を考えています。ポスト近代は、プレ近代とともに、近代ではないとうい点で共通点(例えば、環境破壊の阻止など)を持ちますが、経済成長、グローバルな市場経済、科学技術の進化などを肯定するかどうかで違いがあります。

2014年2月9日に行われた東京都知事選挙で、「経済成長至上主義からの脱却」を主張した細川護熙が、小泉純一郎の支援を受けて有力視されたにもかかわらず、三位で落選しました。両者が合意した脱原発はよいとしても、それは経済成長を犠牲にしたものであってはいけないというのが多くの有権者の判断だったのでしょう。「成長経済から成熟経済へ」というリベラルなイデオロギーを持つ民主党は細川を応援しましたが、そういう成長を否定するプレ近代的な思想を持つ勢力と「構造改革なくして成長なし」というポスト近代的なスローガンを掲げて国民から支持された小泉が同じ候補を応援するということに都民は大きな違和感を感じたのではないでしょうか。

こうもりさんは、構造主義から実存主義への転換を情報化時代のパラダイムシフトと考えているようですが、実存主義のどこが情報化時代にふさわしいパラダイムなのでしょうか。構造主義か実存主義かという論争は、1960年代にレヴィ・ストロースとサルトルの間で行われた主体の自由をめぐる論争ですが、1960年代の論争であることからもわかる通り、古いパラダイムに属する論争と言ってよいでしょう。この論争をもっと通俗的に一般化するなら、大きくて強い体制に対して個人がどう立ち向かうかというこの時代に盛んに論じられていた問題と重なってきます。

それまで、資本主義から疎外された労働者とか、科学技術から疎外された人間とかをどうするかがこの時代の課題だったのですが、1970年代以降、大きくて強い体制が崩壊する中、こうした問題の立て方それ自体が古くなり、脱中心化されたネットワーク型社会の中で、個人がどう生きていくかが問題になっていったのが現代の情報社会における思想状況であると私は認識しています。

資本主義の行く末
投稿者:こうもり.投稿日時:2014年2月15日(土) 09:02.

「プレ近代」か「ポスト近代」かという二分化は私の想定にはありません。二項対立自体がもう古い枠組みであり、リゾーム型の細分化こそが新しいパラダイムの枠組みとなります。「実存主義」=「プレ近代的な農業社会」という構造ではなく、「実存主義」=「個人の主体性により分化されたマルチバース社会」という構図です。そして「構造主義」=「数学・科学による相対化」が私の中では最後の「大きな物語」となりますので、ネットインフラの構築もグローバル産業の台頭も、古い第二次のパラダイムに分類されるのです。永井さんの言う「大きな政府から小さな政府へ、国際経済からグローバル経済へという現在にまで続くトレンド」も、資本主義の延長線上にある「社会主義、共産主義」と同様に、すべて第二の波に属します。私自身は「グローバルな市場経済、科学技術の発展」を肯定していますが、論じているパラダイムシフトはさらにその先の未来の話です。そこではロジカルに考えようとする私も、小さな「マルチバース」のひとつに収束されるはずです。

やはり時間軸上での差異に原因があるようです。起点を1973年に置き、そこから伸びる2つのベクトルを対立させながら、多層の「マルチバース」を語るのには無理があります。私は「脱中心化されたネットワーク型社会の中で、個人がどう生きていくかが問題になっていった」とおっしゃり、「マルチバース」を提唱する永井さんの方に同意します。「脱中心化」も「マルチバース」も、現在その萌芽は認められますが、まだまだ先の話でしょう。私の言う「構造から実存へ」も、前回その詳細を説明した通り、レヴィ・ストロースvsサルトルの「古いパラダイムに属する論争」とはまったく別の、未来におけるシフトです。

1973年については、「情報革命が起きる転換点」というよりは、「1929年体制が行き詰まりを見せた終着点」という理解をしました。ポジティブな転換というよりは、ネガティブな現象によるものですね。結果、私は相変わらずパラダイムシフトの起点をある特定の年に絞るメリットを見出せませんし、永井さんのご説明にも少々疑問が残りました。

まず米国のベトナム撤退を「戦争ケインズ主義の終焉」とする見方です。1973年にケインズ主義が終焉したと見るのなら、2005年になっても「なぜ戦争は起こるのか」で「戦争は合理的な経済の法則に従って起きる。」と主張する説と自家撞着を起こしています。私自身はケインズ型の経済政策とその効果には否定的な立場を取りますが、軍需産業にとっては旨味があり、ベトナム撤退が転換点にならなかった根拠になると考えます。私が考える「戦争の起きる理由」は、パトロンたる軍事産業がより多くの国家予算を引き出させるために政治家を操るからです。時折、紛争や軍事衝突に発展するのは「鍛えられた筋肉は行使されなければならない」の法則から、国民世論を獲得しなければならないからです。でなければ1973年に終焉どころか、二代に渡るブッシュ政権のミリタリーコンプレックスまでの説明がつきません。もっとも、その意味では冷戦下の軍拡競争が一番美味しかったのでしょうが。

次に為替の変動相場制については、確かにグローバル経済への大きな転換になったと同意します。加えて金本位制の廃止も大きいでしょう。しかしそれ以上に電子決済、電子マネーの普及、株式やFXのネットトレードが大きな貢献を果たしていると思いますので、やはり1973年を特別視する必要はないかと存じます。

最後に、石油危機によるインフレについてですが、これは一時的な現象であり、その後のデフレに苦しむ先進国を見ると、「現在にまで続くトレンド」とは言えません。原因も戦争や紛争、投機熱などであり、資源そのものの枯渇という訳でもありません。続いて「1970年代は、資源問題とともに環境問題が意識された時期」との説明がありましたが、私の認識では我が国において公害問題が噴出したのはその10年以上前から、レイチェル・カーソン「沈黙の春」の60年代にはすでに環境問題は顕在化していたと捉えています。

今回は反論が多くなってしまいましたが、グローバル・スタンダードを語るだけなら、1973年を起点とすることにそれ程異論はございません。

最後に質問をひとつさせてください。初回の書き込み通り、私は資本主義の終焉を漠然と予見しているのですが、経済には疎いせいで、確証を得るには至りません。ただ科学技術の発展に伴うデフレ化は防ぎようがないでしょうし、実体を伴わない資産経済、つまり格差が拡大する中で資産家たちの繰り広げる投機合戦は、最終的に貧乏くじの押し付け合いからの世界危機を引き起こしそうな気がします。永井さんは、今後グローバル経済化、市場経済化が進む中で、いつか資本主義が破綻を来すことがあるとお考えになりますか。あるいは、永遠とは言わないまでも存続して行くと思われますか。ご面倒でなければ、ご教授下さい。

情報社会革命
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2014年2月15日(土) 15:36.

こうもり さんが書きました:

「プレ近代」か「ポスト近代」かという二分化は私の想定にはありません。二項対立自体がもう古い枠組みであり、リゾーム型の細分化こそが新しいパラダイムの枠組みとなります。

プレ近代/近代/ポスト近代は三項対立だから、二項対立ではありません。二項対立自体が古いと言うなら、なぜ

  • 構造主義 : 相対的、客観的事実、理数系学問、ロゴス
  • 実存主義 : 絶対的、主観的価値、人文系学問、パトス

というように、二項対立でこうもりさんが謂う所の新しいパラダイムを説明したのでしょうか。二項対立は私たちの思惟の基本であり、二項対立で考えること自体が古いとは思いません。

こうもり さんが書きました:

永井さんの言う「大きな政府から小さな政府へ、国際経済からグローバル経済へという現在にまで続くトレンド」も、資本主義の延長線上にある「社会主義、共産主義」と同様に、すべて第二の波に属します。私自身は「グローバルな市場経済、科学技術の発展」を肯定していますが、論じているパラダイムシフトはさらにその先の未来の話です。

大きな政府から小さな政府へ、国際経済からグローバル経済へというトレンドは、社会主義や共産主義といった統制経済の衰退を意味するのだから、同じ波に属するとみなすことはできません。また、私は、そのトレンドがたんに現在まで続いているだけでなく、今後も当分続くと考えています。そこが私とこうもりさんとの違いでしょう。

こうもり さんが書きました:

1973年については、「情報革命が起きる転換点」というよりは、「1929年体制が行き詰まりを見せた終着点」という理解をしました。ポジティブな転換というよりは、ネガティブな現象によるものですね。

人間は保守的なので、危機に瀕しない限り、システムを抜本的に変えようとはしません。だから、行き詰まりは、パラダイム・シフトに向けての重要な起点となりうるのです。

こうもり さんが書きました:

結果、私は相変わらずパラダイムシフトの起点をある特定の年に絞るメリットを見出せませんし、永井さんのご説明にも少々疑問が残りました。

たしかに、この手の議論では、「最近は」とか「将来は」とかいった時期を明確にしない曖昧な表現を用いることが多いのですが、それだと真偽のはっきりしない床屋談義にしかなりません。私が敢えてリスクを冒して時期を明確にしているのは、理論を検証可能な形で提示するためです。

こうもり さんが書きました:

まず米国のベトナム撤退を「戦争ケインズ主義の終焉」とする見方です。1973年にケインズ主義が終焉したと見るのなら、2005年になっても「なぜ戦争は起こるのか」で「戦争は合理的な経済の法則に従って起きる。」と主張する説と自家撞着を起こしています。私自身はケインズ型の経済政策とその効果には否定的な立場を取りますが、軍需産業にとっては旨味があり、ベトナム撤退が転換点にならなかった根拠になると考えます。私が考える「戦争の起きる理由」は、パトロンたる軍事産業がより多くの国家予算を引き出させるために政治家を操るからです。時折、紛争や軍事衝突に発展するのは「鍛えられた筋肉は行使されなければならない」の法則から、国民世論を獲得しなければならないからです。でなければ1973年に終焉どころか、二代に渡るブッシュ政権のミリタリーコンプレックスまでの説明がつきません。もっとも、その意味では冷戦下の軍拡競争が一番美味しかったのでしょうが。

何度も申し上げるように、1973年にすべてが変わったというわけではありません。歴史の流れを波に喩えるなら、それは大きな波の中に小さな波があるフラクタルな構造を有しており、トレンドとしては山から谷に向かう間にも小さな山があったりするのです。ケインズ的な財政出動によるリフレ政策は、1973年頃にピークに達し、以後退潮に向かうのですが、景気対策として場当たり的な公共事業をする日本の政治家やブッシュ親子(間にクリントンの時代があるから、二代続けてではありませんが)のように、過去の成功体験の呪縛から逃れることができずに、時代錯誤な手段に訴える頭の古い人たちは依然として存在するものなのです。

公共事業は、その内容が平和的か否かを問わず、一定のリフレ効果があることは確かであり、その意味では戦争も合理的な経済の法則に従っていると言えます。しかし、そのようなリフレ政策は、1973年以降の現代では、決して望ましい方法ではなく、短期的にはともかく、長期的にはメリットよりもデメリットの方が大きいというのが私の考えです。リーマンショック後の大デフレは、1973年以前なら第二次世界大戦レベルの戦争を惹き起こしたでしょう。しかし、米国は、量的金融緩和によるリフレ政策を行い、大規模な戦争を新たに起こすことはしませんでした。これは新しい時代を印象付ける出来事です。

こうもり さんが書きました:

次に為替の変動相場制については、確かにグローバル経済への大きな転換になったと同意します。加えて金本位制の廃止も大きいでしょう。しかしそれ以上に電子決済、電子マネーの普及、株式やFXのネットトレードが大きな貢献を果たしていると思いますので、やはり1973年を特別視する必要はないかと存じます。

情報技術革新は、社会に需要があって初めて普及するものです。だから私は、情報技術革新が情報社会革命をもたらしたというよりも、情報社会革命が情報技術革新をもたらしたという側面を強調しているのです。

こうもり さんが書きました:

最後に、石油危機によるインフレについてですが、これは一時的な現象であり、その後のデフレに苦しむ先進国を見ると、「現在にまで続くトレンド」とは言えません。原因も戦争や紛争、投機熱などであり、資源そのものの枯渇という訳でもありません。

「現在にまで続くトレンド」は、インフレそのものではなくて、インフレに対する対処の仕方です。インフレとデフレは交互に出来する現象ですが、70年代のインフレは、大きな政府の時代を終わらせたゲーム・チェンジャーという意味で記念碑的な意味を持ちます。その結果、インフレの時はもちろんのこと、デフレの時も「小さな政府型」の対策が優れた効果を発揮します。具体的に言えば、80年代の日本、90年代の米国のように、民間主導の技術革新がデフレ脱却の最高の手法となったのです。もちろん、既に述べたように、古い政治家による反動はありますが、彼らの手法が成果を生まないことを有権者が学習するなら、今後さらに廃れていくことでしょう。

こうもり さんが書きました:

続いて「1970年代は、資源問題とともに環境問題が意識された時期」との説明がありましたが、私の認識では我が国において公害問題が噴出したのはその10年以上前から、レイチェル・カーソン「沈黙の春」の60年代にはすでに環境問題は顕在化していたと捉えています。

19世紀の足尾鉱毒事件を取り上げるまでもなく、公害問題あるいは環境問題自体は昔からありますし、その告発も行われていました。政府は、しかしながら、環境問題の解決よりも産業界の利益を優先してきました。その態度を変えるようになったのは1970年代以降なのです。日本の場合、環境庁が設置されたのは 1971年であり、四大公害病の裁判で、被害者に勝訴の判決がでたのはそれ以降です。米国では、『沈黙の春』が出版されたのは、1962年ですが、当時の産業界はこれを激しく攻撃し、受け入れようとはしませんでした。60年代の米国は、公民権運動の時代で、この頃は抑圧された個人が体制に抗議する時代でした。抗議の時代から実践の時代への転換期が情報革命の時期と重なります。結局のところ、環境保護運動が全米に広がって一般化するのは、70年代以降のことです。

こうもり さんが書きました:

永井さんは、今後グローバル経済化、市場経済化が進む中で、いつか資本主義が破綻を来すことがあるとお考えになりますか。あるいは、永遠とは言わないまでも存続して行くと思われますか。ご面倒でなければ、ご教授下さい。

資本主義が崩壊する時は文明が崩壊する時であり、その可能性はゼロではありませんが、あってはならないことです。工業社会における資本主義的な拡大再生産は、文明の規模の量的拡大をもたらし、資源問題と環境問題を惹き起こします。情報社会が理想とするのは、そうした問題を惹き起こさずに価値の拡大再生産を行う質的な改善であり、少子高齢化が進む先進国において既に実践に移されつつあります。但し、発展途上国は、先進国との間にラグがあり、彼らをいかにして情報社会革命の段階に移行させるかが今後の課題だと思います。

再度、議論のための議論
投稿者:こうもり.投稿日時:2014年2月16日(日) 14:52.

どうしても議論が噛み合いませんね。前回メタな指摘をさせて頂いた際には、私の文章力の無さや説明不足が原因かとも、反省しましたが、以下の流れを見る限り、永井さんに私の文をお読み頂けてないのかとも感じてしまいます。再度(Quote)で並べてみます。

永井俊哉 さんが書きました:

1970年代は、資源問題とともに環境問題が意識された時期です。工業革命(産業革命)以降成長を続けた資本主義が曲がり角に達し、成長の限界と弊害が議論された時代でもあります。限界に達した工業社会をどう乗り越えるのかが議論され、そのとき二つの解決方法が提示されました。一つは、近代的な工業社会からプレ近代的な農業社会へと回帰するエコロジカルな方向であり、もう一つはポスト近代的な情報社会へと新たなパラダイムへとシフトする方向です。

私が見るところ、こうもりさんの考えは、前者の方向ではないかと思えます。私は後者の方向でのパラダイム転換を考えています。ポスト近代は、プレ近代とともに、近代ではないとうい点で共通点(例えば、環境破壊の阻止など)を持ちますが、経済成長、グローバルな市場経済、科学技術の進化などを肯定するかどうかで違いがあります。

こうもり さんが書きました:

「プレ近代」か「ポスト近代」かという二分化は私の想定にはありません。二項対立自体がもう古い枠組みであり、リゾーム型の細分化こそが新しいパラダイムの枠組みとなります。「実存主義」=「プレ近代的な農業社会」という構造ではなく、「実存主義」=「個人の主体性により分化されたマルチバース社会」という構図です。そして「構造主義」=「数学・科学による相対化」が私の中では最後の「大きな物語」となりますので、ネットインフラの構築もグローバル産業の台頭も、古い第二次のパラダイムに分類されるのです。永井さんの言う「大きな政府から小さな政府へ、国際経済からグローバル経済へという現在にまで続くトレンド」も、資本主義の延長線上にある「社会主義、共産主義」と同様に、すべて第二の波に属します。私自身は「グローバルな市場経済、科学技術の発展」を肯定していますが、論じているパラダイムシフトはさらにその先の未来の話です。そこではロジカルに考えようとする私も、小さな「マルチバース」のひとつに収束されるはずです。

永井俊哉 さんが書きました:

プレ近代/近代/ポスト近代は三項対立だから、二項対立ではありません。二項対立自体が古いと言うなら、なぜ

  • 構造主義 : 相対的、客観的事実、理数系学問、ロゴス
  • 実存主義 : 絶対的、主観的価値、人文系学問、パトス

というように、二項対立でこうもりさんが謂う所の新しいパラダイムを説明したのでしょうか。二項対立は私たちの思惟の基本であり、二項対立で考えること自体が古いとは思いません。

再度お読みになれば、私の言う「新しいパラダイム」は「構造主義と実存主義の二項対立」ではなく、「個々の実存主義的な主体性によりマルチバースに細分化されたリゾーム社会」であることがお分かり頂けると思います。一度書けば良いものをくどく説明しなおしますが、私の言う「新しいパラダイム」は「多項対立」とでも呼ぶべきものです。

永井俊哉 さんが書きました:

大きな政府から小さな政府へ、国際経済からグローバル経済へというトレンドは、社会主義や共産主義といった統制経済の衰退を意味するのだから、同じ波に属するとみなすことはできません。また、私は、そのトレンドがたんに現在まで続いているだけでなく、今後も当分続くと考えています。そこが私とこうもりさんとの違いでしょう。

そしてこのご指摘を読んで、本当に理解して頂けていない事を痛感しました。両者を区分する上での私の視点は「統制経済の有無」にあるのではなく(それは永井さんが市場経済を語る時にいつも使われる視点でしょう?)、「構造主義的か否か」にあります。「市場経済」であろうが、「グローバル経済」であろうが、「社会・共産主義」であろうが、すべて数学・科学的で、合理的でロジカルであろうとする最後の大きな物語「構造主義」の産物でしょう。ですから私の中では「すべて第二の波に属します」と説いたのです。今回の議論も、無益な平行線を辿りそうな悪い予感が致しております。

「二項対立」対「多項対立」という二項対立
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2014年2月16日(日) 16:26.

こうもり さんが書きました:

再度お読みになれば、私の言う「新しいパラダイム」は「構造主義と実存主義の二項対立」ではなく、「個々の実存主義的な主体性によりマルチバースに細分化されたリゾーム社会」であることがお分かり頂けると思います。一度書けば良いものをくどく説明しなおしますが、私の言う「新しいパラダイム」は「多項対立」とでも呼ぶべきものです。

つまり、「新しいパラダイム」を「二項対立」対「多項対立」という二項対立で位置付けているということですね。でも、そもそも「リゾーム」は「ツリー」との二項対立で意味を成す概念であり、「ツリー」対「リゾーム」は「一項支配」対「多項乱立」という二項対立であって、「二項対立」対「多項対立」という二項対立ではありません。だから、その場合でも不適切ということになります。

こうもり さんが書きました:

両者を区分する上での私の視点は「統制経済の有無」にあるのではなく(それは永井さんが市場経済を語る時にいつも使われる視点でしょう?)、「構造主義的か否か」にあります。「市場経済」であろうが、「グローバル経済」であろうが、「社会・共産主義」であろうが、すべて数学・科学的で、合理的でロジカルであろうとする最後の大きな物語「構造主義」の産物でしょう。ですから私の中では「すべて第二の波に属します」と説いたのです。

「第二の波」というのは、トフラーの用語で、18世紀から19世紀にかけて起こった工業革命から始まった波です。これに対して、「構造主義」という言葉を使うのは不適切です。構造主義は、1960年代に登場した思想であり、18世紀から存在する思想なら、何ら新鮮味がないから流行することすらなかったでしょう。

まだ違います
投稿者:こうもり.投稿日時:2014年2月17日(月) 00:01.

永井さんはどうしても、「新しいパラダイム」内を「二項対立」や「多項対立」の構図で分けようとされていますが、私は時代区分で分けているのです。ですから以前より、時間軸上での視座を重要視しているのです。今一度、整理しますと、

  • 「古いパラダイム(第二の波時代)」=「数学・科学的合理性の時代」=「構造主義」=「ツリー」=「一項支配」
  • 「新しいパラダイム(第三の波時代)」=「個々の主体性の時代」=「実存主義」=「リゾーム」=「多項対立」

となりますので、「構造から実存へ」と銘打っているのです。

永井俊哉 さんが書きました:

「第二の波」というのは、トフラーの用語で、18世紀から19世紀にかけて起こった工業革命から始まった波です。これに対して、「構造主義」という言葉を使うのは不適切です。構造主義は、1960年代に登場した思想であり、18世紀から存在する思想なら、何ら新鮮味がないから流行することすらなかったでしょう。

ご指摘の内容は存じ上げております。ですから以前の書き込みに、下記のようなことわりを記したのです。今回の永井さんのご指摘とほぼ重複するような内容ですから、やはりよく読まれていなかったんでしょうね。

こうもり さんが書きました:

同じ事を少しメタに言えば、構造主義とは単に言語学や人類学などの文系学問に数学、科学的手法を持ち込んだ概念にすぎません。それ自体は20世紀前半の比較的新しい概念ですが、数学や自然科学はギリシャ以前の太古から存在し、産業革命を駆動する源となりました。それらの影響力は絶大で、絶対的な存在であったはずの神を殺し、絶えず交換を繰り返さないと倒れてしまう経済を人間活動の中心に据えさせ、ポスト構造主義の発展に至っては芸術や倫理や文学までをも数値化・相対化に呑み込もうとする勢いです。ひいては我々も、数字という相対的指標を目標に、より多く、速く、遠くまでという競争に明け暮れ、効率や損得勘定を基準に選択を繰り返しながら、結果自らをいつでも交換可能な存在に貶める。特に友情や恋愛、家族や親子など絶対的であったはずの人間関係までもが、相対化され交換可能になり、少子化、離婚、未婚、孤独死などの社会問題を引き起こしています。

より正確には、構造主義が行う要素関係論的な分析は、1955年のレヴィ・ストロース「悲しき熱帯」の発刊以前、1940年代には経済学に導入されていましたし、その何十年も前のソシュール言語学が始祖だとも言われていますので、「それ自体は20世紀前半の比較的新しい概念ですが」と書いたのです。「何ら新鮮味がないから流行することすらなかったでしょう。」いえ、新鮮味は、はるか昔から数学や科学が採っていた分析法を言語学や人類学に応用してみせたところにあったのです。私は工業革命を興した科学の発展も、文系学問を相対化させた構造主義も、永井さんには申し訳ありませんが「エントロピー」も、第二の波に属すべき旧パラダイムの遺物になるだろうと予測しているのです。その限界は、以前説明した通り、閉じられた系の中で命題の「存在」「真・偽」を判定することは出来ても、「当為」「善・悪」を決めることは出来ないところにあります。が、これはまた別にトピックを立てて論じるべき内容かもしれませんね。

まだ違います
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2014年2月17日(月) 08:10.

こうもり さんが書きました:

永井さんはどうしても、「新しいパラダイム」内を「二項対立」や「多項対立」の構図で分けようとされていますが、私は時代区分で分けているのです。ですから以前より、時間軸上での視座を重要視しているのです。

時代区分と概念区分の間に本質的な違いはありません。たとえ考えている対象が過去であったとしても、考えいているのは今なのですから、古いパラダイムと新しいパラダイムという時代区分も、現在という思惟の地平において可能な概念的な二項対立だということになります。

そもそも、二項対立(dichotomy)という用語は、概念的な対立を意味する語であり、実在的な対立を意味する語ではありません。後者の意味に転用してはいけないということはありませんが、普通ではない言葉の使い方だから、誤解を招きやすいということができます。

さて、

  • 構造主義 : 相対的、客観的事実、理数系学問、ロゴス
  • 実存主義 : 絶対的、主観的価値、人文系学問、パトス

という二項対立を

  • 「古いパラダイム(第二の波時代)」=「数学・科学的合理性の時代」=「構造主義」=「ツリー」=「一項支配」
  • 「新しいパラダイム(第三の波時代)」=「個々の主体性の時代」=「実存主義」=「リゾーム」=「多項対立」

というように解釈すると、不都合が生じます。多項対立が相対的であるのに対して、一項支配は絶対的だから、ねじれが生じてしまいます。

こうもり さんが書きました:

構造主義とは単に言語学や人類学などの文系学問に数学、科学的手法を持ち込んだ概念にすぎません。それ自体は20世紀前半の比較的新しい概念ですが、数学や自然科学はギリシャ以前の太古から存在し、産業革命を駆動する源となりました。

それなら、第二の波である構造主義は「ギリシャ以前の太古から存在」したということですか。トフラーが謂う所の第二の波は産業革命(工業革命)以降の出来事だから、どのみちトフラーの議論とは合致しません。

こうもり さんが書きました:

私は工業革命を興した科学の発展も、文系学問を相対化させた構造主義も、永井さんには申し訳ありませんが「エントロピー」も、第二の波に属すべき旧パラダイムの遺物になるだろうと予測しているのです。その限界は、以前説明した通り、閉じられた系の中で命題の「存在」「真・偽」を判定することは出来ても、「当為」「善・悪」を決めることは出来ないところにあります。

価値とは何か」などで書いたとおり、価値はエントロピーで定義できるし、当為はシステムの自己保存を究極目的として導出されます。こうもりさんが謂う所の旧パラダイムも当為や善悪についてそれなりの判断をしてきたにもかかわらず、なぜそれが限界なのでしょうか。

まだまだ違います
投稿者:こうもり.投稿日時:2014年2月17日(月) 18:00.

永井俊哉 さんが書きました:

考えいているのは今なのですから、古いパラダイムと新しいパラダイムという時代区分も、現在という思惟の地平において可能な概念的な二項対立だということになります。

そうです。ようやくご理解頂けたかもしれません。私は今という思惟の地平から、過去は「数学・科学・構造主義的な相対化の時代」、未来は「主体の数だけ生き方のある実存主義的な絶対の時代」という二項対立を考えているのです。ですから私の考えている「新しいパラダイム」だけを切り出せば「多項対立のマルチバース社会」であるということになるのです。

永井俊哉 さんが書きました:

さて、

  • 構造主義 : 相対的、客観的事実、理数系学問、ロゴス
  • 実存主義 : 絶対的、主観的価値、人文系学問、パトス

という二項対立を

  • 「古いパラダイム(第二の波時代)」=「数学・科学的合理性の時代」=「構造主義」=「ツリー」=「一項支配」
  • 「新しいパラダイム(第三の波時代)」=「個々の主体性の時代」=「実存主義」=「リゾーム」=「多項対立」

というように解釈すると、不都合が生じます。多項対立が相対的であるのに対して、一項支配は絶対的だから、ねじれが生じてしまいます。

そしてこちらをお読みすると、新たな齟齬が生じているようですね。私の説いているのは「実存主義」=「多項対立」=「絶対的」という私独自の特殊な概念です。もう一方は「構造主義」=「一項支配」=「相対的」となりますから、私の中ではねじれてなどいないのです。もちろん、一見すると「なぜ多項なのに絶対的なのか」「なぜ一項支配なのに相対なのか」という指摘をされてもおかしくない矛盾したような概念ですから、「構造から実存へ」の中で、「我流の拡大解釈がなされています」と断りながら、その詳細について長文を費やし説明したのです。そちらをよくお読み頂ければ、ご理解頂けるとは思うのですが、それも不可能なようでしたら、次稿ででも、再度その「ねじれ」について説明いたします。

永井俊哉 さんが書きました:

こうもり さんが書きました:

構造主義とは単に言語学や人類学などの文系学問に数学、科学的手法を持ち込んだ概念にすぎません。それ自体は20世紀前半の比較的新しい概念ですが、数学や自然科学はギリシャ以前の太古から存在し、産業革命を駆動する源となりました。

それなら、第二の波である構造主義は「ギリシャ以前の太古から存在」したということですか。トフラーが謂う所の第二の波は産業革命(工業革命)以降の出来事だから、どのみちトフラーの議論とは合致しません。

こちらは失礼ですが、完全な読み違いです。「ギリシャ以前の太古から存在」したのは数学や自然科学です。構造主義自体は「20世紀前半の比較的新しい概念です」と明記してあるではありませんか。どうしてそのような読まれ方をするのでしょう。

問題の源泉
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2014年2月18日(火) 05:29.

こうもり さんが書きました:

こちらは失礼ですが、完全な読み違いです。「ギリシャ以前の太古から存在」したのは数学や自然科学です。構造主義自体は「20世紀前半の比較的新しい概念です」と明記してあるではありませんか。どうしてそのような読まれ方をするのでしょう。

トフラーが謂う所の第二の波は、18世紀から19世紀にかけて起こった産業革命(工業革命)以降の出来事だから、その開始時期を「ギリシャ以前の太古」としても、「20世紀前半」としても、「どのみちトフラーの議論とは合致しません」ということです。

これまでの議論で生じた問題の源泉は、こうもりさんが、実存主義、構造主義、ポスト構造主義、トフラーの未来学などから借用したバズワードを自己流の解釈で使っているところにあろうかと思います。言葉の議論から脱却するためにも、このトピックで一番言いたかったことを、著名人からの借用語を使わずに、平易な日常語を使って、改めて説明し直してください。

的確な反論を希望します
投稿者:こうもり.投稿日時:2014年2月18日(火) 19:22.

私の持論を平易な日常語を使って説明しなおすことについてはヤブサカではございませんが(次レスででも早速するつもりです)、その際には的確な反論を頂きたいのです。私が書いていないことについて、反論を頂いても困ってしまいますし、そこから議論が横道に外れてしまうことが多すぎます。前回の議論についてもそうですし、こちらのmuuさんとの議論にしてもそうです。これまでも、細かい齟齬であればその都度無視してまいりましたが、今回続いている以下のようなやりとりを俯瞰すると、議論を進める上でのどうしようもないような障害を感じてしまいます。

永井俊哉 さんが書きました:

「第二の波」というのは、トフラーの用語で、18世紀から19世紀にかけて起こった工業革命から始まった波です。これに対して、「構造主義」という言葉を使うのは不適切です。構造主義は、1960年代に登場した思想であり、18世紀から存在する思想なら、何ら新鮮味がないから流行することすらなかったでしょう。

この最初の永井さんのご指摘は、ごもっともな部分もあります。私が「第二の波=構造主義」と同列に扱うのは筆が足りなく、すべてを「構造主義の産物」とまとめるのも乱暴でしょう。正確には「第二の波の後期に属する構造主義」と書くべきだったのでしょうし、「第二の波である産業革命とともに発達した科学と、一世紀以上を経て生まれた構造主義的な時代の産物」と書けば誤解は免れたかもしれません(くどくどと長過ぎて現実的ではありませんが)。しかし、永井さんが不適切だと指摘されている時代区分は、既に私が自分の文中で行っておりましたので、

こうもり さんが書きました:

ご指摘の内容は存じ上げております。ですから以前の書き込みに、下記のようなことわりを記したのです。今回の永井さんのご指摘とほぼ重複するような内容ですから、やはりよく読まれていなかったんでしょうね。

と記し、その該当箇所を引用したのです。以下になりますが、これをお読みになっていたならば、そもそも上記のような最初のご指摘もなかったはずです。

こうもり さんが書きました:

構造主義とは単に言語学や人類学などの文系学問に数学、科学的手法を持ち込んだ概念にすぎません。それ自体は20世紀前半の比較的新しい概念ですが、数学や自然科学はギリシャ以前の太古から存在し、産業革命を駆動する源となりました。

ここで私は、

  • 「構造主義は20世紀前半の比較的新しい概念である」
  • 「数学や自然科学はギリシャ以前の太古から存在していた」
  • 「数学や科学が産業革命を駆動する源となった」

という整理の仕方をしていました。これは永井さんの時代区分とも、また事実とも相違ないはずです。そして念をおすために、

こうもり さんが書きました:

より正確には、構造主義が行う要素関係論的な分析は、1955年のレヴィ・ストロース「悲しき熱帯」の発刊以前、1940年代には経済学に導入されていましたし、その何十年も前のソシュール言語学が始祖だとも言われていますので、「それ自体は20世紀前半の比較的新しい概念ですが」と書いたのです。「何ら新鮮味がないから流行することすらなかったでしょう。」いえ、新鮮味は、はるか昔から数学や科学が採っていた分析法を言語学や人類学に応用してみせたところにあったのです。私は工業革命を興した科学の発展も、文系学問を相対化させた構造主義も、永井さんには申し訳ありませんが「エントロピー」も、第二の波に属すべき旧パラダイムの遺物になるだろうと予測しているのです。

と追記いたしましたが、ここでも私は、

ソシュール、1940年代、1955年と具体的に示しながら

  • 「構造主義は20世紀前半の比較的新しい概念である」
  • 「工業革命を興したのは科学の発展」
  • 「文系学問を相対化させたのは構造主義」

という整理の仕方を採っております。

永井俊哉 さんが書きました:

それなら、第二の波である構造主義は「ギリシャ以前の太古から存在」したということですか。トフラーが謂う所の第二の波は産業革命(工業革命)以降の出来事だから、どのみちトフラーの議論とは合致しません。

ところが永井さんから頂いたご批判は、

「第二の波である構造主義はギリシャ以前の太古から存在したのか」

という、誰が読んでも誤りであることは明白な質問です。もちろん私は、

こうもり さんが書きました:

こちらは失礼ですが、完全な読み違いです。「ギリシャ以前の太古から存在」したのは数学や自然科学です。構造主義自体は「20世紀前半の比較的新しい概念です」と明記してあるではありませんか。どうしてそのような読まれ方をするのでしょう。

と返信し、再度「ギリシャ以前の太古から存在したのは数学や自然科学」「構造主義自体は20世紀前半の比較的新しい概念」とお伝えし、どうしてそのような読まれ方をなさるのか、お尋ねしました。

永井俊哉 さんが書きました:

トフラーが謂う所の第二の波は、18世紀から19世紀にかけて起こった産業革命(工業革命)以降の出来事だから、その開始時期を「ギリシャ以前の太古」としても、「20世紀前半」としても、「どのみちトフラーの議論とは合致しません」ということです。

その結果、最新の書き込みで頂いたご返答でも永井さんは、

  • 「第二の波の開始時期はギリシャ以前の太古」あるいは、
  • 「第二の波の開始時期は20世紀前半」

という、こうもりが誤った主張をしていると印象づけるような説明をされています。

今回書き抜いた部分以外でも、もしかすると私が誤解を招くような記載をした箇所があったのかもしれません。しかしその場合でも、これだけ繰り返しご説明すれば、両者のすれ違いは修正できるはずです。私は今でも「第二の波の開始時期はギリシャ以前の太古」であるとか、「第二の波の開始時期は20世紀前半」であるとかの主張をし続けているのですか(もちろん、最初からしていません)? なぜ私が書いてもいないことに対して、反論を何度も繰り返されるのですか? それらの用語を混同させてバズワード化させているのは永井さんの方ではありませんか?

数学や科学は産業革命を駆動する源となったのか
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2014年2月19日(水) 07:53.

これまでのこうもりさんの発言を振り返ってみましょう。まずは、2014年2月16日(日) 14:52 の発言。

こうもり さんが書きました:

両者を区分する上での私の視点は「統制経済の有無」にあるのではなく(それは永井さんが市場経済を語る時にいつも使われる視点でしょう?)、「構造主義的か否か」にあります。「市場経済」であろうが、「グローバル経済」であろうが、「社会・共産主義」であろうが、すべて数学・科学的で、合理的でロジカルであろうとする最後の大きな物語「構造主義」の産物でしょう。ですから私の中では「すべて第二の波に属します」と説いたのです。

次に、2014年2月17日(月) 00:01 の発言。

こうもり さんが書きました:

「何ら新鮮味がないから流行することすらなかったでしょう。」いえ、新鮮味は、はるか昔から数学や科学が採っていた分析法を言語学や人類学に応用してみせたところにあったのです。私は工業革命を興した科学の発展も、文系学問を相対化させた構造主義も、永井さんには申し訳ありませんが「エントロピー」も、第二の波に属すべき旧パラダイムの遺物になるだろうと予測しているのです。

これらを読む限り、こうもりさんが謂う所の構造主義の本質は、「すべて数学・科学的で、合理的でロジカルであろうとする最後の大きな物語」あるいは「はるか昔から数学や科学が採っていた分析法を言語学や人類学に応用してみせたところ」にあり、「工業革命を興した」ことは偶有性と判断できます。だから、私は、構造主義はギリシャ以前の太古から存在したのかと聞いたのです。実際、数学や科学が採っていた方法を工学に応用して、ローマ兵を驚かせるような戦争機械を作ったアルキメデスのような事例があります。

ところが、今回の投稿から判断すると、こうもりさんは、構造主義とトフラーの第二の波を一致させるために、「工業革命を興した」こと、あるいは「産業革命を駆動する源となった」ことを構造主義の偶有性としてではなく、本質として扱おうとしているようです。つまり、《構造主義とは、数学や科学の手法を取り入れることで工業革命(産業革命)を興す思想である》というように構造主義を定義したようです。しかし、この定義は大いに問題があります。

まず、構造主義の本家本元が「工業革命を興した」あるいは「産業革命を駆動する源となった」と言えるでしょうか。少なくとも私は、レヴィ=ストロースの構造主義人類学、ルイ・アルチュセールの構造主義的マルクス主義、ジャック・ラカンの精神分析、ロマーン・ヤーコブソンの構造主義的言語学などが、新たな工業革命(産業革命)を惹き起こしたといった話を寡聞にして耳にしたことがありません。

もっと根本的な疑問があります。そもそも「数学や科学が産業革命を駆動する源となった」と言えるのでしょうか。18世紀から19世紀にかけての産業革命は、数学や自然科学の知識がほとんどない在野の職人が試行錯誤の工夫で機械を改善したことから始まったのであって、蒸気機関の原理の数学的・科学的解明は、ニコラ・レオナール・サディ・カルノーが、蒸気機関普及後の1824年に著した『熱の動力についての考察』以降、技術革新を後追いする形で行われました。私は、「産業革命はなぜ繊維産業から始まったのか 」で、科学技術の能力があったから産業革命を起こすことができたといった従来の能力史観に基づく説明に対して、必要史観による説明を行っています。興味があれば、読んでください。

構造主義は、個人の主体的な自由や歴史の進歩を否定する(あるいは軽視する)かなり特殊な思想潮流で、これで産業革命以降の時代全体をカバーするのには無理があります。こうもりさんがやっているような議論なら、「構造主義」の代わりに「科学技術が支配する社会」といった、平易な日常を使えばよいかと思います。

こうもり さんが書きました:

私が書いていないことについて、反論を頂いても困ってしまいますし、そこから議論が横道に外れてしまうことが多すぎます。前回の議論についてもそうですし、こちらのmuuさんとの議論にしてもそうです。

muu さんは、こうもりさんとは異なって、著名人が特殊な意味で使っていた用語を非本来的な意味で転用することをしませんでした。私が主張内容に賛同しなかったから、長々とした議論になりましたが、平易な日常語を用いて自分の言いたいことを明確に書くという姿勢は見習ってもよいと思います。

もう諦めます
投稿者:こうもり.投稿日時:2014年2月20日(木) 20:23.

永井さんが「問題の源泉」と指摘されたのは、おそらく私が下記のように各概念を分類したところにあるのでしょう。

こうもり さんが書きました:

永井さんがエントロピーをテーマにシステム論を展開されているように、私は若い頃からこの「構造主義」と「実存主義」という観念に取り憑かれてまいりました。また例によって長年、考え捏ねくり廻し過ぎたせいで我流の拡大解釈がなされていますので、大雑把に私の中でのこの2つの対立概念をまとめてみます。

  • 構造主義 : 相対的、客観的事実、理数系学問、ロゴス
  • 実存主義 : 絶対的、主観的価値、人文系学問、パトス

哲学を専門とされている永井さんからすれば笑っちゃうような区分かもしれません。

こうもり さんが書きました:

  • 「古いパラダイム(第二の波時代)」=「数学・科学的合理性の時代」=「構造主義」=「ツリー」=「一項支配」
  • 「新しいパラダイム(第三の波時代)」=「個々の主体性の時代」=「実存主義」=「リゾーム」=「多項対立」

お読みの通り、異なる概念を大きく2つに分類してまとめていますので、その各概念の間に完全な一致が見られる訳ではありません。例えば「構造主義」=「ロゴス」というのも、「第二の波の時代」=「構造主義」というのも、ベン図の円が完全に重なるように、それぞれの単語が同じ意味を包括している訳ではありません。

そもそも分類の仕方など、何を基準にするかで異なってくるものですし、異なる2つの単語が同じ意味を完全に共有していることなど稀でしょう。特に「実存主義」「構造主義」の定義は広く曖昧で、論者によって多方面で差異が生じています。永井さんが、上記の私の分類法に批判的ならば、最初からそれを指摘してくだされば良かったのです。

「第二の波」=「構造主義」としてあるからといって、それならば「工業革命は構造主義が起こしたのか」あるいは「第二の波の開始時期は20世紀後半」などと批判されるのは、失礼ながら稚拙な挙げ足取りだとしか評せません。しかも、今回提案してくださった『「構造主義」の代わりに「科学技術が支配する社会」といった、平易な日常を使えばよいかと思います。』という言い方からも分かるように、永井さんはすでに私の主張をほぼ正確にご理解されているのではありませんか。そう指摘してくだされば、私は『タコ壷』の時と同じように、より相手に伝わる用語を躊躇なく選ぶつもりです。

永井俊哉 さんが書きました:

これらを読む限り、こうもりさんが謂う所の構造主義の本質は、「すべて数学・科学的で、合理的でロジカルであろうとする最後の大きな物語」あるいは「はるか昔から数学や科学が採っていた分析法を言語学や人類学に応用してみせたところ」にあり、「工業革命を興した」ことは偶有性と判断できます。

『こうもりさんが謂う所の構造主義の本質は、「すべて数学・科学的で、合理的でロジカルであろうとする最後の大きな物語」あるいは「はるか昔から数学や科学が採っていた分析法を言語学や人類学に応用してみせたところ」にあり』とおっしゃっているこの言葉、これはその通りです。私はそう考えていますし、そう書いています。本質だとまでは主張しておりませんが。

しかしこちら、『「工業革命を興した」ことは偶有性と判断できます。』と書かれた永井さんの判断の方は違います。本文で「工業革命を興した科学の発展」と書いた通り、私は「工業革命を興した(のは)科学の発展」だと考えています。『構造主義が工業革命を興した』などとは(本質であろうが、偶有性であろうが)考えておりませんし、書いてもおりません。私が書いていないことを、私の意見であるかのようにまとめないで下さい。

永井俊哉 さんが書きました:

ところが、今回の投稿から判断すると、こうもりさんは、構造主義とトフラーの第二の波を一致させるために、「工業革命を興した」こと、あるいは「産業革命を駆動する源となった」ことを構造主義の偶有性としてではなく、本質として扱おうとしているようです。

扱おうとしていませんし、そう書いてもおりません。今回(前回)書いたのは「工業革命を興したのは科学の発展」、「数学や科学が産業革命を駆動する源となった」という文です。「工業革命を興したのは構造主義」、「構造主義が産業革命を駆動する源となった」などとは書いておりませんし、そう扱おうともしていません。

永井俊哉 さんが書きました:

つまり、《構造主義とは、数学や科学の手法を取り入れることで工業革命(産業革命)を興す思想である》というように構造主義を定義したようです。しかし、この定義は大いに問題があります。

それは大いに問題があるでしょう。私はそんな風に定義もしていなければ、考えてもいないのですから。わざわざ《 》まで付けてまとめて下さっていますが、私が最初から定義付けているのは、《構造主義とは、数学や科学の手法を取り入れることで言語学や人類学を相対化させた思想である》ということです。私が書いていないことを、私が書いたことであるかのようにねつ造して、まとめないで下さい。

永井俊哉 さんが書きました:

こうもり さんが書きました:

私が書いていないことについて、反論を頂いても困ってしまいますし、そこから議論が横道に外れてしまうことが多すぎます。‪前回の議論‬‬についてもそうですし、‪こちらのmuuさんとの議論‬‬にしてもそうです。

muu さんは、こうもりさんとは異なって、著名人が特殊な意味で使っていた用語を非本来的な意味で転用することをしませんでした。私が主張内容に賛同しなかったから、長々とした議論になりましたが、平易な日常語を用いて自分の言いたいことを明確に書くという姿勢は見習ってもよいと思います。

私が指摘しているのは、このmuuさんの投稿から始まり、延々と続いた議論のことです。

muu さんが書きました:

私が書いていないことを、さも書いているかのようにでっちあげて反論しないでください。

誰も書いていないことに反論している人が、人に対しては「存在しない敵と戦っている」とは、けっこう笑わせていただきました。

最後の方で永井さんは、

永井俊哉 さんが書きました:

実は私も内心馬鹿馬鹿しい話だと思いつつも、無視したら失礼かなと思って、付き合ってあげたのですよ。馬鹿馬鹿しい話の相手をして私自身が馬鹿だと思われるのは馬鹿馬鹿しいので、これからはそういう馬鹿なことはしないようにします。

と書かれていますが、どうお読みしても『私が主張内容に賛同しなかったから、長々とした議論にな』ったというような、まっとうな議論展開には思えません。特にmuuさんが「前提」とした条件にまつわる議論の応酬は、第三者の私でも永井さんの方に非があように読めます。

最後に。今回タイトルに記した通り、もう永井さんとのメタ議論は諦めます。ですが、どなたとももう少し和やかに議論をされたらどうかと思わずにはいられません。おそらく永井さんは、感情を排した簡潔な議論をお望みなのだと思いますが、それと気持ち良く議論を進めることは、両立できることだと思います。

日本型の座談会 vs. 欧米型ディベート
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2014年2月21日(金) 10:36.

こうもり さんが書きました:

そもそも分類の仕方など、何を基準にするかで異なってくるものですし、異なる2つの単語が同じ意味を完全に共有していることなど稀でしょう。特に「実存主義」「構造主義」の定義は広く曖昧で、論者によって多方面で差異が生じています。永井さんが、上記の私の分類法に批判的ならば、最初からそれを指摘してくだされば良かったのです。

「構造主義」の定義が広く曖昧で、論者によって多方面で差異が生じているからこそ、こうもりさんがどういう意味で使っているか尋ねなければいけないのです。「最初からそれを指摘してくだされば」とありますが、最初から私が分かっていたというわけではありません。

こうもり さんが書きました:

「第二の波」=「構造主義」としてあるからといって、それならば「工業革命は構造主義が起こしたのか」あるいは「第二の波の開始時期は20世紀後半」などと批判されるのは、失礼ながら稚拙な挙げ足取りだとしか評せません。しかも、今回提案してくださった『「構造主義」の代わりに「科学技術が支配する社会」といった、平易な日常を使えばよいかと思います。』という言い方からも分かるように、永井さんはすでに私の主張をほぼ正確にご理解されているのではありませんか。そう指摘してくだされば、私は『タコ壷』の時と同じように、より相手に伝わる用語を躊躇なく選ぶつもりです。

私は理解力に乏しい愚鈍な人間なので、根掘り葉掘り聞かないと、相手が言っていることを理解することができません。「タコ壷」の時もそうで、一方でアドホクラシーというビューロクラシー(官僚制)と対立する語を使いながら、なぜ「タコ壺」という官僚制を連想させるような言葉を使うのかと質問しなければ、こうもりさんの真意をつかむことができませんでした。

「構造主義」の方も同じで、「第二の波」を「構造主義」で説明するという話は私にとって初耳で、違和感を覚えたので、どういう意味で使っているのかを根掘り葉掘り聞いたのです。その結果「科学技術が支配する社会」という意味で使っているという結論に達し、それなら「構造主義」というミスリーディングな言葉を使うことはやめて、「科学技術が支配する社会」という言葉を使ってはどうかとアドバイスした次第です。私は好意的なアドバイスをしているつもりなのに、なぜ嫌われなければならないのでしょうか。

こうもり さんが書きました:

本文で「工業革命を興した科学の発展」と書いた通り、私は「工業革命を興した(のは)科学の発展」だと考えています。『構造主義が工業革命を興した』などとは(本質であろうが、偶有性であろうが)考えておりませんし、書いてもおりません。私が書いていないことを、私の意見であるかのようにまとめないで下さい。[…]私はそんな風に定義もしていなければ、考えてもいないのですから。わざわざ《 》まで付けてまとめて下さっていますが、私が最初から定義付けているのは、《構造主義とは、数学や科学の手法を取り入れることで言語学や人類学を相対化させた思想である》ということです。私が書いていないことを、私が書いたことであるかのようにねつ造して、まとめないで下さい。

私が“今回の投稿から判断すると、こうもりさんは、構造主義とトフラーの第二の波を一致させるために、「工業革命を興した」こと、あるいは「産業革命を駆動する源となった」ことを構造主義の偶有性としてではなく、本質として扱おうとしているようです”あるいは“《構造主義とは、数学や科学の手法を取り入れることで工業革命(産業革命)を興す思想である》というように構造主義を定義したようです”というように、非断定的な表現を使っていることに注目してください。これらは、こうもりさんの主張を解釈するために私が立てた仮説です。

自然科学では、科学者は、真理に到達するために、仮説を立てます。仮説が実験により反証されれば、別の仮説を立てます。この作業を繰り返すことで、最終的に検証された真理に到達します。他人が言っていることを理解する時も同じプロセスを繰り返すことが有効です。他人が言っていることが理解できない時には「あなたが言おうとしていることはこういうことなのか」と仮説を立てます。相手が否定すればそれは反証されたことになり、肯定するなら検証されたことになります。

引用符とは異なる《 》で括った命題は、議論を整合的に解釈するために私が立てた仮説です。第二の波を構造主義で説明するこうもりさんの議論には以下のようなディレンマがあり、どちらかを選ばなければ話が整合性を失います。

  1. 《構造主義とは、数学や科学の手法を取り入れることで工業革命(産業革命)を興す思想である》という定義を採用する→この場合「構造主義」という言葉は第二の波に近づくが、本来の構造主義とは離れる。
  2. 《構造主義とは、はるか昔から数学や科学が採っていた分析法を言語学や人類学に応用してみせる思想である》という定義を採用する→この場合「構造主義」という言葉は本来の意味に近づくが、第二の波とは離れる。

結局のところ、こうもりさんは、2 の選択肢を選んだようです。仮説-検証のプロセスを繰り返すことで、こうもりさんが「第二の波」という言葉で考えていたものは、「構造主義」と呼ぶべきではなく、「科学技術が支配する社会」といったようなものだということで合意に達したのですから、これは対話の成果として素晴らしいことではないですか。それなのに、なぜ臍を曲げているのですか。

こうもり さんが書きました:

どうお読みしても『私が主張内容に賛同しなかったから、長々とした議論にな』ったというような、まっとうな議論展開には思えません。特にmuuさんが「前提」とした条件にまつわる議論の応酬は、第三者の私でも永井さんの方に非があように読めます。

それは、muu さんが“「誰も買わないものを売る馬鹿」の話”とけなすから、そう答えたのです。その一件が示すように、主張内容の同意には至らなかったものの、muu さんが、「こうもりさんとは異なって、著名人が特殊な意味で使っていた用語を非本来的な意味で転用すること」をしなかったことは事実であり、「平易な日常語を用いて自分の言いたいことを明確に書くという姿勢は見習ってもよいと思います」という私の提案に対する反論になっていません。あるいはまた“私が今問題視しているのは永井さんの「ご意見」ではなく、議論を進める上でとられる永井さんの「姿勢」です”とでも言いたいのですか。

それに対する私の回答は、リンク先で行いましたが、あらためて学問的議論はどうあるべきかについて書きましょう。人間は感情の動物であり、間違いを指摘されたら不快に思うことは自然なことです。しかし、もしも自分の理論を改善しようとする意志があるなら、私が“「スケープゴートからファルスへの反転」 の空集合の記述について”でやっているように、間違いに気が付いた時には、それを素直に認め、間違いを指摘したくれた人に感謝し、さらに間違いを指摘するようにお願いするべきでしょう。それをやらないと、周りがイエスマンばかりになって、裸の王様になってしまいます。

他方で、自分が正しいと思う時は、他人に媚び諂うことなく、自分の正しさを主張するべきです。その結果、人間関係が悪化したり、上司から煙たがれ、出世できなくなることもあるかもしれませんが、学者なら、出世よりも真理の方を優先するべきです。欧米では、ディベートにおいてはこういう姿勢で臨むことが当然視されるのですが、日本では、和を乱すということで、ディベートが嫌われ、代わりにもっと和やかな座談会や対談が頻繁に催されます。座談会や対談では、議論を戦わすことは稀で、大概お互いに頷き合いながら、話が友好的に進行します。こうもりさんもそうした座談会風の反応を期待していたということでしょうか。

そうした座談会方式が悪いとは言いませんが、そういうことばかりしていると、グローバルな知の競争に勝てないのではないかと危惧します。日本の大学、特に人文社会科学系の評価は国際的に見て非常に低い。日本の大学でマイケル・サンデルがやっているようなディベート型授業が行われることはめったになく、弟子たちがボス教授の言うことを盲信するという古いスタイルの授業が相変わらず主流となっています。私は、そうした日本の知の現状を変えたいと思っています。

こうもり さんが書きました:

今回タイトルに記した通り、もう永井さんとのメタ議論は諦めます。

議論を中断するのはこうもりさんの自由だし、止めることはしませんが、私に悪意がないことは理解していただけたかと思います。

構造から実存へ(まとめ)
投稿者:こうもり.投稿日時:2014年3月11日(火) 21:03.

お返事遅くなりました。「あきらめる」と書いたのはあくまでも、「議論のための議論(メタ議論)」であって、第三次パラダイムに関する議論、本編の方を放棄したわけではありません。ましてや『臍を曲げている』わけでもございません。今の私の心境は「あきらめます」と書いた通り、一種の「諦観」です。何を何度言っても無駄かもしれないと、悟り、諦めつつあるのですが、今回お書きくださった事に関しても2つだけ、提案を申し上げます。

1. 相手の表現で分からない部分や、曖昧な所があれば、その相手に尋ねるのが一番です。

科学のように仮説を立てるなんて大袈裟な苦労は不要です。答の返って来ない故人の手よる文書を解読しているのではなく、相手に直接質問すれば、答は返ってくるネット上の議論なのですから。その方がお互いの時間や労力の短縮にもなりますし、理解も深まるはずです。「相手はこう言っているようだ」と仮説を立てて、そこから導きだされる拡大解釈に対して反論をされているので、「見えない敵と戦っている」とか「書いてもいないことに反論しないで下さい」と言われてしまうのです。

2. 『学問的議論はどうあるべきか』のご講義は、議論が成り立ってから、さらに感情的になっている方になさって下さい。

『人間は感情の動物であり、間違いを指摘されたら不快に思うことは自然なことです。』というご指南は、的確に私の間違いを指摘されてから、おっしゃって下さい。私は自分が書いていないことに対して、批判を頂いているので困っているのです。ですから私が今回「議論のための議論」と題して永井さんにお願いしていることは、前回同様、議論をする上での永井さんの「姿勢」の改善です。

そして私の方も、永井さんからリクエストを頂いた通り、自分の文章を書く姿勢を改めてみたいと思います。借用語というものを極力使わないで、できるだけ平易な日常語を用いて、私の主張していた「構造から実存へ」という考え方の説明を、今一度試みます。

まず、私の主張の基盤となっているのは、「理数系学問が算出するような「真・偽」と、人文系学問が判断するような「善・悪」を混同してはいけない」という考え方です。永井さんからは反対の意思表明を既に頂いておりますが、私は科学や数学が「善悪」の判断をつけたり、人間の価値観を規定できたりするものだとは考えません。それどころか、そういった趨勢には、何か思想的に危険なものを感じます。『こうもりさんが謂う所の旧パラダイムも当為や善悪についてそれなりの判断をしてきたにもかかわらず、なぜそれが限界なのでしょうか。』とのご質問を以前に頂きましたが、その「それなりの判断」に私は反意を表しているのです。

ひとつ例を挙げれば、100年以上前に自分たちの論じている資本主義は、空想ではなく科学的だと主張する2人組の経済学者たちがおりましたが、その人たちの思想は多くの凄惨な歴史を人類にもたらす結果に終わってしまいました。もちろんその原因は、諸説論じられているのですが、私は諸悪の根源は、そもそも彼らが「真・偽」と「善・悪」の判断を混同した所以にあったと考えます。彼らが、綿密な計算と理論構築を繰り返し、私には理解するのも困難なような「労働者は働けば働くほど、労働やその結果そのものから疎外されていく」などという原理を算出したところまでは良いのです。その先に財産や生産手段を共有するようなユートピアを想定した事も、政党の対立がなくなり一党に集約されるようなユートピアを提案したことも、良しとしましょう。問題は、その果てに労働者は「団結しなくてはならない」「決起せよ」などと革命を煽動したところにあります。これは彼らが言う「科学」と「善・悪」の判断の混同です。

数学や科学という理数系分野の学問は、森羅万象を数値や記号によってモデル化し、閉じられた系の中でのそれらの関係性を明晰化していきます。そこでは「真・偽」という事実は問われますが、「善・悪」という価値が問われることはありません。「1たす1は2であるべき」などという価値判断は必要なく、「1たす1は2」という事実だけでこと足りるのです。逆に「〜あるべき」などという命題に、手を出そうとすると火傷を負う事になりかねない。そんな仕事は人文学、特に詩人や小説家の仕事にまかせるべきです。その際に最も微妙な位置にあるのが、経済学や社会学、そして倫理学や哲学も含める人文科学系の学問です。

といっても、人文科学と人文学という用語でさえも、その境界線は一般的には曖昧なので、再度、私流の分類(各学問の捉え方)を説明しておきます。まず使う定規(基準)は、抽象—具象という概念です。その定規上に抽象的な学問から具体的な学問へと、順に並べていきますと、まず抽象の先端に来るのが「数学」になります。数字という抽象的にモデル化された概念を、公理という閉じられた系の中で扱う「数学」は、森羅万象の具体的な事物からは最も遠いところにあるものの、自身の閉じられた系の中では非常に精度の高い「真偽」を判断することができる学問です。次に「物理学」や「化学」などの、再現可能性により「真偽」が判別される自然科学が続きます。それから「地学」や「医学」など、同じ自然科学であっても扱う対象が複雑系であり、再現可能性よりも、統計学的手法によって「真偽」を判断することの多い学問が続きます。扱う対象は「気象」や「人間の体」など、より具体的になりますが、その精度は「数学」や「物理学」と比べるとかなり落ちてきます。そして「心理学」という非常に微妙な学問を挟んで、ここから「社会学」や「経済学」など、一般的に「人文科学」と呼ばれる領域に入ります。これらの学問は文系学問に属しながら、数学や統計学などの科学的手法で「真偽」をはかろうとします。しかしその精度はかなり落ち、答や解もひとつには絞られていません。代わりに「〜すべき」「〜せよ」という価値もその主張に含まれ始めます。そして次の「倫理学」「哲学」になると、かなり論理的な精度を上げようとはしておりますが、「権威付けのために数学や科学用語を用いた挙げ句その誤用を指摘される」という事件も起こったりしています。最後に、定規のもう片方の端、一番具象的な先端に位置するのが「文学」です。「文学」は「数学」とは対照的に、一番の複雑系だとも言える個々人の心の動きを、数字のような単純なモデルとして抽象化するのではなく、複雑なままに言葉で表現しようとします。中でも「マルチバース」の折に触れたように、一篇の詩は合理性とは対極に位置する、不条理で矛盾した人の心を活写するものです。

大雑把ではありますが、以上のような分類、順位付けは、別に私独自の特異な理論と言う訳ではなく、多少の誤差はあれど、一般的なものだとも思います。しかし、おそらく私が今回のトピックで主張している特異なる点は、それらのどの学問も「善・悪」の判断をつけられないとする点にあるのかもしれません。その点が永井さんとも大きく異なるところでしょう。つまり科学や数学は「善・悪」の判断をつけない、或はつけられないという考え方は多くの人の同意を得られるかもしれませんが、倫理学や哲学も付けられないとすると、疑問を呈する方も多くなるかと思います。しかし先ほど定義した定規のどこかに、境界線を引くことはできません。引くとすれば文学や詩の外側、人の主観、主体、心との間に引くことになるだろうというのが私の考えです。

「文学」とはいっても、学問としての「文学」は、個々の作品を解体したり、相対化したりしながら、時代的な位置付けや論理的な関係などを研究していきます。つまり要素を抽象化させることによって、普遍的な評価を下していきます。また同じ「文学」と呼ばれる詩や小説などの文学作品そのものも、やはり人の心(主に筆者の心)を、言語という記号で抽象化し、読者に敷衍化・普遍化を試みるものです。特に合理的に思考しようとする「社会学」や「哲学」とは違って、文学や詩は合理的には片付けられない人の心を積極的に拾おうとします。しかしそれら全てとて、実際の人の「心」を完全に表現できる訳ではありません。文学作品と「心」の間には大きな隔たりがあります。言い換えると、実際の人の心の動き、感覚質は、いかなる言語、記号、数式を用いても抽象化できない。突き詰めれば、人と人とは完全には理解し合えない。というのが、私の結論(というか諦観)です。

この諦観を私は以前より「人は主観の檻に閉じ込められている」と呼んでいるのですが、檻に閉じ込められている自分の主観を他人に理解してもらうことができないと同時に、檻の中に入っている他人の主観に手を伸ばせないのもまた人間の宿命だと思っています。この命題の真偽を検討するには、人の脳の活動は要素に還元できる機械的なものなのか、あるいは脳というシステムの総和以上の何かスピリチュアル的なものによって動かされているのかという脳科学的な問題や、自分が感じている主観が、どのように他者からの客観とでもいうべきものに影響を受け、認識を共有しているのかという哲学的な問題を論じなくてはならなくなると思うので、機会を別にしたいと思います(借用語も使えないことですし)が、とりあえず今のところの私は、先ほどの結論通り、人間には主観、主体、自由意志、心なるものが存在すると仮定して振る舞い、思索し、生きることを選んでおります(新たな有力な説が出てくれば変わるかもしれませんが)。

そして永井さんが『個人の主体的な自由や歴史の進歩を否定する(あるいは軽視する)かなり特殊な思想潮流』と説明された思想は、その説明の通り「心理学」「経済学」「社会学」や果ては「文学」「芸術学」「音楽学」などの研究対象を各要素に解体し、その相関関係や構造を数学や科学的、あるいは論理的に比較検討する上で多大な貢献を人類にもたらしました。しかし肝心の人の心、主観や自由意志そのものを説明することは出来ないという欠点を抱えてもいます。例えば「文学」で言えば、その作品の構造や、過去の作品や神話などとの類似点、相違点などを説明することには長けていても、我々が文学作品から得る感動がどこから、どのように起こるのか、人の心や価値観をまったく説明できない、という欠点です。それはちょうど数学や科学が「善・悪」の判断を下せないのと同じことで、数値や記号でモデル化し、閉じられた系の中で「真・偽」を識別することはできても、システムの外のことについては手が出せないという限界と重なります。それこそが以前永井さんから頂いた『なぜそれが限界なのでしょうか。』というご質問への答になります。これまでネットの無償化、マルチバースなクローズドアプリ、仮想通貨、スローフードやQOLなど様々な例を挙げて第三次パラダイム(これは借用語ではなく私の造語です)の兆候を例示してまいりましたが、この限界こそが第三次パラダイムを引き起こす引き金になると思います。

翻って第二次パラダイムでは、数学や科学や経済学や哲学が論理的に導きだす「真・偽」にすぎないものが、絶対的な「善・悪」であるかのように捉えられてきました。よく言われるような「20世紀最大の宗教は科学である」という命題や、これもまたよく言われる「善悪は科学の中にあるのか、人の心の中にあるのか」という問は、我々一般人の受け取り方の問題です。科学者が「善悪」を言い出さなくても、科学の発達により飛躍的に暮らしやすくなり、社会や経済も発展したおかげで、我々は本来相対的な指標であるはずの数値や記号を、ある種、絶対的であるかのように崇拝するようになったのです。以前『少しベタな言い方をすれば、第二次時代の我々は、偏差値や年収などの数値を上げるために、人生の大半の時間を費やすことを余儀なくされていました。際限のない数字を追いかける無間地獄のような受験戦争・出世競争は、手段・方便であるはずの金銭を自己目的化し、人間をその下に隷属化させました。』と説明した通りです。なぜ働くのか、なぜ勉強するのか、というその目的を、実体のない概念にすぎない数字に求めてしまう、相対的なものに絶対を求めてしまう、という人々の矛盾が第二次パラダイム時代のジレンマだったのだと思います。

しかし、如何なる科学的知見も、合理的思考から導かれた哲学・倫理学的価値観も、人間の、特に個々人の不条理な主観、自由意志、心を明文化できる訳ではありません。人々の日々の生活をつくり、行動原理となる、喜怒哀楽のような感情やさまざまな事象に対する好悪などは、脳科学の発達をもってしても解析不可能だと思いますし、永井さんの主張するエントロピーに基づく「自殺=悪」論を、自殺しようとしている人物に訴えたとしても、ほとんど効力は望めないでしょう。それよりはまだ、一篇の物語、詩の方が生きる活路を与えられるかもしれません。しかし究極的には、人の心というものは、一番の近親にある人の声さえも届かない、彼岸の彼方にあるものです。文明の恩恵により、さまざまな事が可能になったが故に、最後に残る不可能性、個々人の心というものが大きくクローズアップされるのが、次のパラダイムだろうと予想します。

そこに合理的な根拠はなくても、絶対的な価値、無条件の愛を求めるのが人の心です。相対化された世の中が与えてくれる価値観は「君はいつでも交換可能なんだよ」という無情なものです。いくら自らの才能や努力で、他人との差異、自身の希少性を高めたところで「交換可能」であることに変わりはありません。封建時代の絶対的な神や社会が与えてくれていた「自分はなぜ生まれてきたのか」「人はなぜ生きるのか」という価値観を失った第二次パラダイムに生きる若者たちの心境は、セカイ系と呼ばれるマンガやアニメの作品群によく投影されています。絶対的な価値を与えてはくれない科学や合理性に失望し、超自然的な存在に解を求めようとする人の心が、第三次パラダイムを希求するのです。

ここで、私自身の第一から第三までのパラダイム観を「善・悪の価値判断の変遷」という観点から整理しておきます。

第一次パラダイム——人口の8割以上が第一次産業に従事し、貨幣は存在したものの貨幣経済は浸透していなかった時代。封建的な価値観と宗教的な価値観に基づいて生きることを余儀なくされ、個人の自由度は低かった(あるいは人権を蔑ろにされたりもしていた)。しかしその封建的価値観、宗教的価値観における伝統や習慣、儀式や戒律などには、科学の合理性では到達し得ない「真理」を含有していたのではないかと私は考える。それは「有史以前からの長い時間というフィルターに濾しとられた自然淘汰」とでもいうべきもので、人類はその生き方や家族・社会の形成の仕方、自然との付き合い方などを、合理性に基づく判断ではなく、各部族の全滅をも含む原始の頃からのトライ&エラーで獲得してきた。その競争に残ったドミナントな文化、宗教には、その民族や風土に最適化された「真理」を、ある程度は提供していたのではないかと思われる。

第二次パラダイム——工業と貨幣経済が中心となる今の時代。自然科学も人文科学も大きな発展を遂げたが、前時代の神を殺すと同時に、人類未曾有の世界大戦や大殺戮、自然破壊を巻き起こした。社会制度的にも物質的にも個人の自由度が上がり、豊かにはなったが、効率、利便性、損得勘定を個人も、社会も規範とするようになってしまったので、「自由競争」という本当の自由とは呼べないような競争や、「本当の豊かさとは何か」といような逆説的な問に囚われるジレンマに陥る(自由という刑罰に処せられているどころではなく)。私は特に個人の生き方の問題、なぜ生きるのか、家族観、結婚観、育児など、それまでは伝統や慣習、宗教によって理屈抜きで(自然淘汰によって)規定されていた価値観が、解体されてしまったことを問題視している。科学はまだまだ複雑系の領域を解き明かしてはいないのに、人々は最も複雑なそれら、生き方の問題に合理的な解を求める。特に人文科学系の哲学者や社会学者たちは、(時に間違った)科学的知見を持ち出して、社会の在り方や人間の生き方、要は「善・悪」の価値を規定しようとする。しかし人間は本来、数式や合理性の中に生きるのではなく、物語や夢の中に生きていると私は考えるので、ここに現パラダイムの限界を見出している。加えて、発達し過ぎる科学や技術に反して、人々が「持続可能な」社会を標榜し始めたことにも、その限界の兆候が見える。

第三次パラダイム——コンテンツ、特に個々人の物語や詩が価値観の中心になるマルチバースな社会。第二次パラダイムが、相対的であるはずの科学宗教によって価値観が絶対化されていたのに対して、第三次パラダイムは、檻に閉じ込められているが故に絶対的である個人の主体、自由意志、心が、地下茎でつながれたマルチバースの形成・分裂・融合を繰り返していく、全体としては相対化の時代となる(以前『ねじれ』と説明したことです)。それは第二次パラダイムの恩恵(交通網、通信網、グローバル経済の発達)によってさらに高まった自由度に支えられて初めて可能になる社会体制ではあるが、そのベクトルは第二次とは逆に、少量生産少量消費、クォンティティよりクオリティー、グローバルな価値観より地域・民族に根差した価値へと転換。全体主義的な国家、中央銀行貨幣は衰退し、Bitcoin、Litecoin、Rippleのような仮想通貨による小額決算から無償によるコミュニケーションが盛んになる。同時に議会制民主主義も、ネット網を駆使した小規模直接民主主義に代替可能であるし、通貨の権力誇示メディアとしての機能が衰退する代わりに、分割できる投票権としての機能が高まるだろうと予想できる。もちろんメリットだけではなく、他人からの批判や合理的な説得を受け付けない新興宗教や疑似科学が蔓延るディストピアとなる可能性も高い。非人道的な予測となるが、人類は各マルチバース間の自然淘汰から再出発をすることになるのかもしれない。

長い割には非常に舌足らずな説明でしたが、以上になります。念のため、誤解を避けるための弁明となりますが、私は自然科学を否定している訳でも、人文科学を否定している訳でもありません。また、科学や文学などの学問のうち、どちらが崇高だとか、優れているとかの優劣をつけている訳でもありません。それぞれの学問領域の守備範囲を、私なりに解説したまでです。私個人としては、以上のようなパラダイム観を抱えながら、出来るだけ科学や哲学の学識を参照し、合理的な判断の元に自らの行動規範を規定していきたいと心掛けています。しかし、ここまで再三説明した通り、それらの合理的な判断では答の出ない問題も多々あります。特に複雑な要素が多数絡む生き方の問題を考える際には、封建時代以前より人類が選択して来た道を尊重することにしています。結婚や育児、人付き合い、文化や伝統に関わることなどがそれにあたります。合理性により、未婚や少子化問題に解決の糸口を見つけようとする理論や政策には違和感をおぼえますし、現代人の傲慢さも感じます。

またこれも誤解を避けるためにことわって置きたいのですが、私は人と人とのコミュニケーションを否定している訳でもありません。確かに「檻の中に閉じ込められ」、完全な意思疎通は不可能な「主体」「心」「自由意志」を持つのが人間という存在の宿命ではあります。しかし、完全な意思疎通が出来ないからといって、コミュニケーションを諦めるのではなく、出来ないからこそ人は語り合うものだと認識しております。このパラドックスは「海は世界を分断するものなのか、結ぶものなのか」という比喩に似て、そもそも人々の心が差異もなくひとつならば、コミュニケーションなど不要なのです。それぞれが異なるからこそ、語り合い、求め合うのが人間だと思います。ですからそれぞれが判断する「善・悪」の価値は、大いに語り合い、意見交換すべきです。しかし押しつけや強制はすべきではありません。例えば「タバコは善である」or「悪である」という一般人でも、研究者の間でも意見の分かれる価値観を、法制化して、国民全員に強制することには反対ですし、もうそんな時代でもないでしょう。第三次パラダイムは全体主義的な強制など通用しなくなり、各個人が自由な主体性の元で、マルチバースを形成し、地下茎により価値の交換をしていく時代なのです。

最後になりますが、私の立ち位置、スタンスは、半世紀前に人間の主体性を謳い上げた哲学者を反面教師にしていると説明すれば、具体的にご理解頂けるかもしれません。「人は物とは違って、自由に自分のありたい未来像を投企することができる」とする彼の主張は、私の言う第三次パラダイムでの人間の主体のありかたのほとんどを説明しており、若い頃、大変な影響を受けました。しかし、「人は社会に参加し、関わらなくてはならない」と言い出し、冒頭の2人組の経済学者の思想を支持し、政治活動に関わったり、女性哲学者との人工的な(人為的な?)契約結婚を繰り返したりした愚行は、2つの意味で間違っていると言えます。ひとつは全体主義的な強制に加担したこと、もうひとつは「真・偽」と「善・悪」を混同したことです。マルチバースを地下茎でつないだ今後のネットワーク社会では、全体主義的なユートピア思想などは無効となりますし、不要となります。代わりに本当の意味で人が「自由の刑に処せられる」時代が始まるのです。

借用語を使わなかった分、よけい回りくどい、冗長な文章になってしまったような気もしますが、長々と書かせて頂いた分、「情報化社会のパラダイムシフト」について私が論じたい内容は、これをもってほぼ纏めることができました。今回もまた、不毛なやり取りが挟まれましたが、議論が延々と平行線を辿っても仕方がないので、次第に本トピックを収着に向かわせようとは考えております。もちろん的確な反論やご質問があればお答えいたしますので、遠慮なくご指摘ください。

Re: 情報化時代のパラダイムシフト
投稿者:まるこめのすけ.投稿日時:2014年3月12日(水) 05:07.

こうもりさんが聞きかじっただけのよく理解していない言葉を使うから議論の為の議論が必要になっていて

1. 相手の表現で分からない部分や、曖昧な所があれば、その相手に尋ねるのが一番です。

との、こうもりさんのご指摘の通り永井さんがこうもりさんに質問して
言葉の意味を理解していないこうもりさんが曖昧かつ余計な文言を加えて答えるから
永井さんは言葉の意味を推測しつつ議論に付き合わざるを得ない状況になり無限ループになっているんだと思いますよ。

こうもりさんは「あ」と発音しても、いやそれは「い」だと言ったり
「い」に聞こえるのはおかしい、「あ」って言っただろうといちゃもん付けてる様にしか見えないです。
そして詳しく言葉の定義を詰めていこうとしたり、本来こう使うものだと
教えてくださった永井さんに対して感情的になり、永井さんの議論に臨む姿勢がおかしいと説教しはじめる始末。
言葉とか文字は相手に情報を伝えるツールなんですから、違う文化圏ならともかく正しく伝わらないのは受け取る側の責任じゃなくて、送る側の責任なんですよ。
それと文章が無駄に長いのは借用語を使わなかったからじゃなくて、議論に必要ない部分が多いからですよ。
無駄が多いほど読み取る側の苦労が増えて誤った解釈をしてしまう可能性も増えるので純粋に議論を続けるつもりがあるならもっと省いた方が良いかと思います。

近代の超克
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2014年3月12日(水) 17:15.

まるこめのすけさんを無視するわけではありませんが、こうもりさんが、議論のための議論(メタ議論)の打ち切りを宣言した以上、私もこれ以上メタレベルの議論を行わないことにします。また、借用語を使わずに日常語で説明すると言う以上、思想史的な議論もとりあえず横に置くことにしましょう(もっとも、こうもりさんは、たんに名前を伏せているだけで、相変わらず思想史的な考察を続けているようですが)。以下、より本質的な内容に関する議論に移ることにします。

こうもり さんが書きました:

私の主張の基盤となっているのは、「理数系学問が算出するような「真・偽」と、人文系学問が判断するような「善・悪」を混同してはいけない」という考え方です。永井さんからは反対の意思表明を既に頂いておりますが、私は科学や数学が「善悪」の判断をつけたり、人間の価値観を規定できたりするものだとは考えません。それどころか、そういった趨勢には、何か思想的に危険なものを感じます。

まずそもそも価値とは何かから考えましょう。価値とはある目的に対する手段としての有用性であり、その限り、それは科学技術とは無縁ではありません。科学は因果関係を明らかにし、そして原因-結果関係を手段-目的関係として捉え直し、目的に対する最適な手段を選ぶのが技術の役割です。科学技術が発展すればするほど、私たちは正しい価値判断と正しい行動規範の認識が可能になるはずであり、否むしろ、科学技術の発展はこの観点から定義されるべきでしょう。

倫理学者の中には、手段としての価値と目的としての価値を区別する人が多いのですが、目的の価値と思えるものは、実際にはより上位の目的に対する手段としての価値であり、価値概念を関係概念と認識するなら、究極的な目的には価値がないということになります。では、私たちの究極的な目的は何かと言えば、それは生命の維持というのが私の結論です。これはあらゆる価値判断の基準であり、ちょうど物差しで物差しの長さを測ろうとするとトートロジーになってしまうように、究極目的を基準にして究極目的に価値を付与しようとしてもトートロジーになってしまいます。その意味で、生命の維持を正当化する合理的根拠はありません。

こうもり さんが書きました:

永井さんの主張するエントロピーに基づく「自殺=悪」論を、自殺しようとしている人物に訴えたとしても、ほとんど効力は望めないでしょう。それよりはまだ、一篇の物語、詩の方が生きる活路を与えられるかもしれません。

生命に価値があるという命題は、トートロジーのループの外部に何も根拠を持たないというのが、「自殺はなぜ悪なのか」における私の結論ですから、「自殺しようとしている人物に訴えたとしても、ほとんど効力は望めない」のは当然でしょう。感情に訴えて自殺を思い留めさせることができたとしても、それは生命に価値があるということを論理的に証明したことにはなりません。

ところで、生命の維持といっても、どの生命の維持なのかと聞かれるかもしれません。基本的にそれは自分の生命ですが、コミュニケーション可能な共同体においては、言語の普遍性によるエゴイズムの相互承認から道徳が生まれます。こういった話は、「安楽死について」で既に行ったことですから、ここでは繰り返しません。

こうもりさんの議論との接点として重要なことは、自然科学の世界には、「今」、「ここ」、「私」といった言葉で指示される特異点は存在しないということです。これらの言葉は誰もが使うことができる言葉であり、かつその都度指示対象が変化します。言語は普遍的であるがゆえに、それは私のかけがえのなさを十分に表現することができません。私たちは、個と普遍が軋轢を生む中、生きているのです。

しかし、こうした個と普遍との対立も、生命の生存力をむしろ高めることに役立っています。個々の生命体に利己心がない場合でも、他の個体の利益を犠牲にするほど利己心が強すぎる場合でも、種全体あるいは生命体全体の生存力を低めることになります。ほどほどに利己的で、ほどほどに協調的な状態が、個体にとっても、全体にとってももっも生存力を高める結果になります。

こうもり さんが書きました:

そこに合理的な根拠はなくても、絶対的な価値、無条件の愛を求めるのが人の心です。相対化された世の中が与えてくれる価値観は「君はいつでも交換可能なんだよ」という無情なものです。いくら自らの才能や努力で、他人との差異、自身の希少性を高めたところで「交換可能」であることに変わりはありません。封建時代の絶対的な神や社会が与えてくれていた「自分はなぜ生まれてきたのか」「人はなぜ生きるのか」という価値観を失った第二次パラダイムに生きる若者たちの心境は、セカイ系と呼ばれるマンガやアニメの作品群によく投影されています。絶対的な価値を与えてはくれない科学や合理性に失望し、超自然的な存在に解を求めようとする人の心が、第三次パラダイムを希求するのです。

交換可能であるからといって価値がなくなることはありません。むしろ逆に、価値の間主観的妥当性は、交換によって初めて明確に認識されると言ってよいでしょう。貴重な骨董品に、普通の商品とは異なる法外な価値があるということも、オークション市場という交換の場を通じて初めて認識されるのです。貨幣によって価値を数量化したからといって、それを交換しなければいけないということにはなりません。「この骨董品は、いくら金を積まれても売らない」という人もいるでしょう。このように、個と普遍が軋轢を惹き起こすことはあります。

こうもり さんが書きました:

第二次時代の我々は、偏差値や年収などの数値を上げるために、人生の大半の時間を費やすことを余儀なくされていました。際限のない数字を追いかける無間地獄のような受験戦争・出世競争は、手段・方便であるはずの金銭を自己目的化し、人間をその下に隷属化させました。

ときどき「偏差値より個性値」といったキャッチフレーズを掲げる人がいますが、そもそも偏差値というのは、平均値が50、標準偏差が10となるように変数の分布をノーマライズ化したもので、個性値そのものです。偏差値を使わずに、受験生の学力格差あるいは入学の難易度という個性をどう客観的に認識するというのでしょうか。もちろん、受験生は決して偏差値だけで志望校を選ぶわけではないし、消費者は価格だけで商品の購入を決定するわけではありません。しかし、そうした数量化された価値は、様々な判断をするうえで参考にはなるし、そうした使い方をしている限り、数字の奴隷になったとは言えません。

こうもりさんは、謂う所の「第三次パラダイム」が「他人からの批判や合理的な説得を受け付けない新興宗教や疑似科学が蔓延るディストピアとなる可能性も高い」と自分で書いていますが、たしかに、こうもりさんが提唱するパラダイム転換には、カルト的な危険性が感じられます。カルトの指導者は、現代社会の病理を批判し、信者をそこから救おうとするのですが、理想郷のはずだったカルトの新世界は、それ以上に病んでいるというのが普通でしょう。

最後に思想史的な話を一つ付け加えます。私は、こうもりさんの話を聞きながら、1942年に『文学界』の座談会で行われた「近代の超克」なる議論を連想しました。彼らが謂う所の近代の超克というのは、政治においてはデモクラシーの超克であり、経済においては資本主義の超克であり、思想においては自由主義の超克であり、太平洋戦争のさなかの日本の場合、欧米の世界支配の超克でもありました。京都学派の哲学者たちが言う近代の超克は、近代を超えるというよりもむしろ前近代への後退であり、決して進歩的なものではありませんでした。欧米の世界支配の超克を目指した太平洋戦争がどのような帰結になったかは今更書くまでもありません。ヨーロッパを謙虚に模倣していた明治時代の日本の方がまだましでした。

京都学派の哲学者たちの主張とこうもりさんが言っていることは同じではありません。しかし、近代を乗り越えようとしながら、むしろ近代以前へと後退しているという点で共通点があるように見えます。近代あるいは現代の社会に様々な問題があることは事実ですから、それを批判するのは結構なことですが、代替として掲げられた理想郷が、現状以下ではないかということを疑う精神は必要でしょう。

質問をまとめました
投稿者:こうもり.投稿日時:2014年3月20日(木) 18:58.

また返信が遅くなりましたが、『本質的な内容に関する議論』ありがとうございます。「長文を省け」とするまるこめすけさんのアドバイスもあったことですし、論点を絞って、いくつかの質問をさせて頂きたいと思います。

Q1.「真偽」から「善悪」を導けないという点について、我々の見解は一致していませんか?

永井さんが『生命の維持はトートロジーのループの外部に何ら合理的根拠を持たない』と認識されているということは、私が「合理的判断は閉じられた系の中でしか真偽を計れない」とする主張と、ほぼ同様の内容を述べていることになると思うのですが、どうでしょう。私も、閉じられた系の中でなら、『価値とはある目的に対する手段としての有用性』であるとする永井さんの定義に同意します。

Q2. それならば永井さんは何故、『善悪』を導けるとお考えなのでしょう?

私は前回説明した通り「人の心は閉じられた系(システム)の外にある」あるいは「(前回規定した)抽象的な学問の定規の外にある」と認識しております。おっしゃる通り、閉じられたシステムの中でなら「真偽」や「数量」などの「相対的な価値」は規定できると思いますが、主観の檻に閉じ込められている人間の『善悪』や好悪などの感情の「絶対的な価値」は導けないように思えます。

Q3.マルチバースの方が生存適応力を高めると思うのですが?

永井俊哉 さんが書きました:

こうもりさんの議論との接点として重要なことは、自然科学の世界には、「今」、「ここ」、「私」といった言葉で指示される特異点は存在しないということです。《中略》それは私のかけがえのなさを十分に表現することができません。私たちは、個と普遍が軋轢を生む中、生きているのです。

『接点』とおっしゃってくださっているのは、私と永井さんとで認識を共有している「接点」と考えてよろしいですか? 私も自然科学は「今」「ここ」「わたし」という絶対的な座標を表記できず、また自分のかけがえのなさを証明できないものだと認識しておりますし、前回(表現は違えど)同様のことを書きました。ただ「個と普遍が軋轢を生む中、生きているのです」という結論には少しの違和感をおぼえます。それは次の表記にある永井さんの考え方との違いです。

永井俊哉 さんが書きました:

しかし、こうした個と普遍との対立も、生命の生存力をむしろ高めることに役立っています。個々の生命体に利己心がない場合でも、他の個体の利益を犠牲にするほど利己心が強すぎる場合でも、種全体あるいは生命体全体の生存力を低めることになります。ほどほどに利己的で、ほどほどに協調的な状態が、個体にとっても、全体にとってももっも生存力を高める結果になります。

こちらのご意見を否定はしないのですが、このような「個と普遍の軋轢」は旧パラダイムに属するものだと思います。前回説明したように、第一次パラダイムは個人の自由(や利己性)が封建制度(普遍)の元に抑圧されていましたし、第二次パラダイムは個人の自由度が上がったのに対して、合理的で全体主義的な政策がかつてないほどに力をつけ、凄惨な歴史を残しました。第三次パラダイムは『もうそんな時代でもないでしょう』という言い方をした通り、軋轢も軽減される時代になるだろうと予想します。

私は「ほどほどに利己的で、ほどほどに協調的な状態」よりも、「利己的な個体から利他的な個体へと多様性に富んでいる」状態の方が生存力を高めると思います。「ほどほど」さは、合理的整合性から導きだされるものではなく、環境による淘汰を経て「ほどほど」におさまるものではありませんか。つまり個々の生命体が「ほどほどに」なるのではなく、自分勝手な個体から献身的な個体まで、バラエティーに富んでいる状態の方が、淘汰は起きてしまいますが、生存に適すると思います。

Q4.個人的な価値を、客観化できる指標はあるのでしょうか?

永井さんの『交換可能であるからといって価値がなくなることはありません。むしろ逆に、価値の間主観的妥当性は、交換によって初めて明確に認識されると言ってよいでしょう。』というお言葉は、まさにおっしゃる通りだと思います。「価値は交換から生まれる」というのは、人類学において婚姻制度を価値の交換だと見出した人の考え方の原点ですからね。逆を言えば『この骨董品は、いくら金を積まれても売らない』という大切な品物の価値は、交換が起こらない限り、客観化、間主観化、普遍化できないということになると思います。するとここでも、私と永井さんの意見は一致しているように思えます。「かけがえのなさ」は相対的には証明不可能なものではあるが、人はその「かけがえのなさ」をこそ、欲するものだというのが私の意見です。

Q5.結局のところ永井さんは世界のマルチバース化の予測を肯定されているのですか? 否定されているのですか?
そもそもこの用語も永井さんが『私としては、マルチバースという流行語を使いたい。』と提案してくださったところから、私も便乗して使わせて頂いているぐらいですので、肯定されているのではありませんか。永井さんの中での「マルチバースの概念」と、『細分化といっても村社会の復活ではなくて、あくまでもグローバルな個人主義というように理解したいと思います。』という初期に頂いたお言葉との間に、厳密な違いはあるのでしょうか。私の予想している未来も、地下茎でつながれたネットワーク社会ですので、閉ざされたムラ社会ではなく、意見交流も活発で移動も自由にできる社会なのですが。そうすると、我々の意見はこれといって対立していないようにも思えます。

質問は以上となりますが、最後にまた但し書きとして。私は第三次パラダイムのマルチバース社会を両手放しで推奨、賞賛しているわけではありません。『たしかに、こうもりさんが提唱するパラダイム転換には、カルト的な危険性が感じられます。』『それを批判するのは結構なことですが、代替として掲げられた理想郷が、現状以下ではないかということを疑う精神は必要でしょう。』という表現から察すると、私がマルチバースを「理想郷として提唱している」ようにも読めますが、私はあくまでも「予測している」だけに過ぎません。

永井さんは、私の予測するパラダイム転換を『近代以前へと後退している』と批判されていますが、社会全体が後退する訳でもありません。あくまでもマルチバースですので、科学の発展を支持する人々も依然として残ります。貨幣経済に固執する人々もいるでしょう。一方でアーミッシュのように前近代の生活に戻ったり、地域・民族的な伝統を重んじる趨勢も復活するでしょう。私の考察通り、善悪は合理的には導かれないとするならば、社会全体が前進する必要も、後退する必要もないのです。それよりも、他のマルチバースを認めつつ、地下茎によるコミュニケーションや語り合いを密にして、私の警鐘するカルトや疑似科学にハマる人々が淘汰の憂き目に合わぬよう、流動性を維持することが肝要かと思います。

個と普遍の軋轢
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2014年3月22日(土) 12:04.

こうもり さんが書きました:

「真偽」から「善悪」を導けないという点について、我々の見解は一致していませんか?

私が言っていることは、「真偽」から「善悪」を導けないということではなくて、基準を基準自体に適用できないということです。ものさしは、ものさし以外の長さを測ることができるが、ものさし自身の長さを測ることはできないということです。例えば、次の二つの命題を比較してください。

  1. C 原子の原子量は12.01である。
  2. 12C 原子の原子量は12.00である。

原子量とは、12C 原子の質量を 12 とした相対質量ですから、命題1 が同位体の存在比という情報を含んだ有意味な命題であるのに対して、命題2 はトートロジーであり、意味がありません。そもそも原子量の基準を 12C 原子の質量にしなければならない客観的な根拠は何もないのですが、いったんそれを基準にするなら、12C 原子以外の原子の質量をその相対比で有意味に表すことができます。同じことが、以下の二つの命題に当てはまります。

  1. タバコを吸わないことは健康に良い。
  2. 生命を維持することは良い。

命題1 は評価基準を基準以外に適用しているから有意味な価値判断ですが、命題2 は、評価基準を自分自身に適用しているため、トートロジーとなっていて、価値判断としては無意味だということです。

こうもり さんが書きました:

「個と普遍の軋轢」は旧パラダイムに属するものだと思います。前回説明したように、第一次パラダイムは個人の自由(や利己性)が封建制度(普遍)の元に抑圧されていましたし、第二次パラダイムは個人の自由度が上がったのに対して、合理的で全体主義的な政策がかつてないほどに力をつけ、凄惨な歴史を残しました。第三次パラダイムは『もうそんな時代でもないでしょう』という言い方をした通り、軋轢も軽減される時代になるだろうと予想します。

「個と普遍の軋轢」は軽減するべきではなく、むしろ人類社会が発展していく上で必要なものであると私は考えます。「軋轢」を完全になくそうとするなら、個をなくすか普遍をなくすかのどちらかですが、普遍をなくすと、無政府状態となり、生命システムの維持が困難になります。他方で、全体主義的に個をなくすと、システムが進化しにくくなり、変化適応力を失うことになります。

こうもり さんが書きました:

結局のところ永井さんは世界のマルチバース化の予測を肯定されているのですか? 否定されているのですか?

ユニバースを求めるマルチバース、普遍への上昇を試みる個というのが望ましい状態です。小保方晴子が「STAP 細胞は存在する」と言い、iPS 細胞の研究者が「STAP 細胞は存在しない」と言う場合、それぞれが自分のマルチバースに住むことを許容するなら、科学は普遍性を失います。科学者は、一つの普遍的真理を求めなければなりません。しかし、他方で、既存の定説を絶対視し、異論を一切認めないようでは、科学は進歩しません。だから、多様性を認めつつも、普遍性を求めなければならないということです。多様性と普遍性のどちらに力点を置くかは時代によって異なります。資本集約的な時代には普遍性に力点が置かれていたのに対し、知識集約的な時代には、多様性に力点が置かれるのですが、両方が必要であることは、いつの時代でも変わりありません。

階層化による軋轢の軽減
投稿者:こうもり.投稿日時:2014年3月24日(月) 18:39.

永井俊哉 さんが書きました:

私が言っていることは、「真偽」から「善悪」を導けないということではなくて、基準を基準自体に適用できないということです。

《中略》

命題1 は評価基準を基準以外に適用しているから有意味な価値判断ですが、命題2 は、評価基準を自分自身に適用しているため、トートロジーとなっていて、価値判断としては無意味だということです。

「Q1」への解答ですね。『基準を基準自体に適用できない』という理屈は以前より理解しております。私がお訊きしているのは、『価値判断としては無意味だ』ということは、「善悪を導けない」というこになるのではないですか? …というその先の質問になります。

つまり、長さの基準をメートル原器で規定する事はあくまでも恣意的であり、そこに合理的根拠はない訳ですから、他の文化が他の単位を採用することは自由な訳です。原子量についても、基準としてならCでもOでも機能します。「自殺は悪だ」とする根拠を『生命の維持』に求めるのも永井さんの恣意に過ぎないのですから、万人が従うべき「善悪」の価値には成り得ないのではないか、という批判です。

永井俊哉 さんが書きました:

「個と普遍の軋轢」は軽減するべきではなく、むしろ人類社会が発展していく上で必要なものであると私は考えます。「軋轢」を完全になくそうとするなら、個をなくすか普遍をなくすかのどちらかですが、普遍をなくすと、無政府状態となり、生命システムの維持が困難になります。他方で、全体主義的に個をなくすと、システムが進化しにくくなり、変化適応力を失うことになります。

私は『軽減するべき』と述べているのではなく、「軽減されるだろう」と予測を立てているのです。ましてや『完全になくそう』などとは考えておりません。再度、私が書いてもいないことに批判を頂いてしまったような気がします。ただ、軋轢が軽減されるだろうというだけの予測ですから、「無政府状態」などは念頭になく、第三次パラダイムのベクトルは「小さな政府」に向かうだろうとだけ予測しています。

永井俊哉 さんが書きました:

ユニバースを求めるマルチバース、普遍への上昇を試みる個というのが望ましい状態です。小保方晴子が「STAP 細胞は存在する」と言い、iPS 細胞の研究者が「STAP 細胞は存在しない」と言う場合、それぞれが自分のマルチバースに住むことを許容するなら、科学は普遍性を失います。科学者は、一つの普遍的真理を求めなければなりません。しかし、他方で、既存の定説を絶対視し、異論を一切認めないようでは、科学は進歩しません。だから、多様性を認めつつも、普遍性を求めなければならないということです。多様性と普遍性のどちらに力点を置くかは時代によって異なります。資本集約的な時代には普遍性に力点が置かれていたのに対し、知識集約的な時代には、多様性に力点が置かれるのですが、両方が必要であることは、いつの時代でも変わりありません。

私が「予測」をしているのに対して、永井さんは「提唱している」ように読めます。『普遍への上昇を試みる個というのが望ましい状態』だという主張は、万人が従うべき規範のようなものになるのでしょうか。『それぞれが自分のマルチバースに住むことを許容するなら、科学は普遍性を失います』というのは確かにその通りですが、それでは「マルチバースに住むことを許容しない」ということですか。『科学は進歩し』ないからといって、『普遍性を求めなければならないということです』と帰結するのは、「自殺は悪だ」「喫煙を禁止せよ」などと同じ、恣意の押しつけに他なりません。価値観がまるで異なる人々が混在できるのが、私のマルチバースの概念です。

では何故私は「個と普遍の軋轢が軽減される」と予測するのか。それはマルチバース社会では「普遍」からの軋轢がメタレベルで働くからです。この階層的な社会構造を説明するために、ここで一度我々の使って来た用語を整理し、訂正します。階層としては「ユニバースが下位に、マルチバースが上位に」位置するのが、用語本来の使用法ですよね。これまで私も永井さんに合わせて使用させて頂いてきましたが、『ユニバースを求めるマルチバース、普遍への上昇を試みる個』というのは本来逆になります。「マルチバースを求めるユニバース、普遍への上昇を試みる個」と記述するべきですね。

ユニバースというコミュニティーに集う人々は、それぞれが似た価値観を共有しているのですから、コミュニティーのために自由を抑制する必要性は低く済みます。究極的には1人だけしか所属しないユニバースも生まれるでしょうから、その場合は他との普遍(性)を気にする必要もないのでしょうが、人間は社会的欲求((所属、承認、自己実現)が強いものですから、ユニバースに群れる人々が多いでしょう。そういったユニバースを繋ぐのが交通網やネットなど、地下茎状の構造を持つマルチバースとなります。このメタレベルに階層が上昇する段階で、各ユニバース間と普遍との間に軋轢が生じます。そしてその上位にはさらにオムニバースがあるように、さらなる普遍化を必要とする階層が存在します。「個<ユニバース<マルチバース<オムニバース」というように階層が続いていくわけです。すると個々の人々にとっては、自由の制限が緩和され、普遍との軋轢を感じずに済み、多様性が認められるようになるだろうと予測できます。第一次パラダイムでは、食料生産のために労働を集約せねばならず、自由度は低く、多様性は認められませんでした。第二次パラダイムでは、工業生産のために資本を集約せねばならないのですが、自由や多様性はある程度認められるようになりました。第三次パラダイムでは、食料の生産力も工業製品の生産力も上がったため、労働や経済に縛られず、自由な思想を持ち、多様な生き方ができるような階層化された社会構造になるだろうというのが、私の考えるマルチバース社会です。個人は軋轢を感じずに済み、軋轢は各バースの階層が上がる際に生じるのです。

なぜ基準の選択に必然性があるのか
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2014年3月25日(火) 12:15.

こうもり さんが書きました:

『基準を基準自体に適用できない』という理屈は以前より理解しております。私がお訊きしているのは、『価値判断としては無意味だ』ということは、「善悪を導けない」というこになるのではないですか? …というその先の質問になります。

繰り返しになりますが、私が言っていることは、事実判断であれ、価値判断であれ、判断基準を基準自体に適用できないということであって、いったん基準を受け入れるなら、「真偽」から「善悪」を導くことができます。生命体は、この地球に誕生して以来、生命を維持するようにプログラムされているので、価値基準を受け入れるかどうかを恣意的に決めることはできません。まれに生きることを目指さない個体が生まれることはあっても、まさに生きることを目指さないがゆえに、すぐに消滅してしまいます。だから、私たちが生きることを目指すのは必然であり、それが必然である以上、それを目的とする手段の価値も、因果関係にかかわる事実認識について異論が生じる可能性はあるにしても、客観的な必然性を持つことになるのです。

こうもり さんが書きました:

「自殺は悪だ」とする根拠を『生命の維持』に求めるのも永井さんの恣意に過ぎないのですから、万人が従うべき「善悪」の価値には成り得ないのではないか、という批判です。

もしもこうもりさんにとって、生きることを選ぶか、あるいは死ぬことを選ぶかが恣意にすぎないのなら、なぜこれまで生きることを選び続けたのですか。

こうもり さんが書きました:

私は『軽減するべき』と述べているのではなく、「軽減されるだろう」と予測を立てているのです。ましてや『完全になくそう』などとは考えておりません。再度、私が書いてもいないことに批判を頂いてしまったような気がします。

私は、こうもりさんが「軽減するべき」と述べているとは書いていません。「軽減されるだろう」という予測に対して、それを軽減する必要はないという私の認識を示しているのです。

こうもり さんが書きました:

私が「予測」をしているのに対して、永井さんは「提唱している」ように読めます。

社会は、私たちが理想を実現しようとする行為に基づいて作られるのであって、私たちの理想追求から離れて勝手にできるという類のものではありません。だから、社会が将来どうなるのかという話は、社会がどうあるべきかという話と本来切り離すことができないのです。もしも社会が望ましくない方向に向かっていると判断するなら、なぜそれが望ましくないのか、そしてそれを阻止するにはどうすればよいのかを語ることが責任ある言論人のするべきことでしょう。

こうもり さんが書きました:

『それぞれが自分のマルチバースに住むことを許容するなら、科学は普遍性を失います』というのは確かにその通りですが、それでは「マルチバースに住むことを許容しない」ということですか。『科学は進歩し』ないからといって、『普遍性を求めなければならないということです』と帰結するのは、「自殺は悪だ」「喫煙を禁止せよ」などと同じ、恣意の押しつけに他なりません。価値観がまるで異なる人々が混在できるのが、私のマルチバースの概念です。

もしも普遍性が不要なら、なぜ私たちはこのフォーラムで議論をしているのでしょうか。こうもりさんは、「皆さんのご意見を伺いたい」と言って最初の投稿をしました。もしもこうもりさんが普遍性を求めていないなら、他人の意見など求める必要はなく、自分のユニバースに籠って、瞑想にでも耽っていればよいのではないでしょうか。

フィクションの類を別にするなら、知には普遍的妥当性が要求されます。普遍的妥当性のない知は、生命の維持に貢献しないがゆえに価値がないのです。他方で、フィクションには、シミュレーションの可能性を高めるという機能があり、この機能という観点から、価値があったりなかったりします。それゆえ、生命の維持を目的とした存在者にとって、知の普遍的妥当性を求めるか否かは、恣意的な選択対象ではないのです。

もちろん、普遍性を求めるということと、普遍性に到達するということは別です。私たちは、普遍性を求めつつも、普遍性に完全に到達することはありません。しかし、こうした宙ぶらりんな状態こそが、環境適応と変化適応、安定性と発展性、エントロピーの縮減と増大という有限な存在者に要求される二つの要件を満たす状態であるのです。

なお、オムニバス(omnibus)をオムニバースと発音することは、ラテン語の発音としても、英語の発音としても正しくありません。また綴りを見ればわかる通り、ラテン語のウニヴェルス(univers)や英語のユニバース(universe)と語源的なつながりはありません。あるいは、こうもりさんの新造語なのかもしれませんが、いずれにせよ、マルチバースの集合体は、マルチバースであり、それを統一してしまえばユニバースになるのだから、それ以外の用語を作る必要はないかと思います。

[注]投稿後に内容を一部改変しています。

簡単に用語の訂正だけ
投稿者:こうもり.投稿日時:2014年3月26日(水) 16:05.

永井俊哉 さんが書きました:

PS. オムニバス(omnibus)をオムニバースと発音することは、ラテン語の発音としても、英語の発音としても正しくありません。また綴りを見ればわかる通り、ラテン語のウニヴェルス(univers)や英語のユニバース(universe)と語源的なつながりはありません。

Omnibusではありません。Omniverseです。詳しくはWikiのページをご参照なさってください。

訂正の訂正
投稿者:こうもり.投稿日時:2014年3月26日(水) 16:15.

と、投稿しましたら、昨夜の記事を永井さんが書き直されていたことに気付きました。失礼しました。私の造語ではありません。「マルチバース」という用語の使用を提唱された永井さんですから、ご存知のはずだと思い、使ってしまいました。なお、

永井俊哉 さんが書きました:

いずれにせよ、マルチバースの集合体は、マルチバースであり、それを統一してしまえばユニバースになるのだから、

という表記のされ方だと、依然として順序が逆になっております。以前整理した通り「ユニバース<マルチバース<オムニバース」とするのが正しい用法です。

オカルト用語
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2014年3月26日(水) 20:40.

“Omniverse”で検索すると、“Ben 10: Omniverse”という米国のテレビアニメ番組関連の情報が出てきます。それ以外では、UFO がどうの、エイリアンがどうのといった類のページが出てきます。

リンク先の日本語ウィキペディアのページには、「これは主にオカルトにおいて用いられる」とあり、普通の科学者が使う言葉ではないようです。私もこんな言葉は初めて聞きました。こうもりさんにはオカルト趣味があるのでしょうか。

それはともかくとして、論理的に言って、世界は一かその否定(多)かのどちらかであり、ユニバースでなければマルチバース、マルチバースでなければユニバースです。よって、これ以外の概念は不要です。マルチバース間の包摂関係を表現するなら、レベルで区別すればよいでしょう。

恣意的な部分引用はおやめください
投稿者:こうもり.投稿日時:2014年3月26日(水) 23:45.

びっくりしてしまいました。投稿のタイトルが『オカルト用語』で、本文には『こうもりさんにはオカルト趣味があるのでしょうか。』と書かれているのですから。

永井俊哉 さんが書きました:

リンク先の日本語ウィキペディアのページには、「これは主にオカルトにおいて用いられる」とあり、普通の科学者が使う言葉ではないようです。私もこんな言葉は初めて聞きました。

確かにそこだけ抜き出せば、『こうもりさんにはオカルト趣味があるのでしょうか。』と、今回の議論とはまったく関係ない私の人格とその評価に関する指摘を記述をすることも可能です(永井さんは常日頃からそのような行為を非難されていたはずですが)。その誤解を解くためにも、Wikiからその前後の記述を掲載させてください。

ウィキペディア さんが書きました:

オムニバース (Omniverse) は、概念上可能なすべての宇宙(ユニバース)の集合である。この集合に含まれるそれぞれの宇宙は個別の物理法則を持ち、オムニバースには概念上可能なすべての物理法則が含まれる[1][2]。これは主にオカルトにおいて用いられる。現代物理学の文脈では、"物理法則と物理定数"を一組だけ持つ"宇宙"という限定された定義が、複数の物理法則と物理定数を含む宇宙の集合というように拡張され、それぞれの物理法則と物理定数は個別の宇宙を表現している。量子力学において、この語はすべての実在する宇宙全体(オムニバース)と限定された数の宇宙(マルチバース、ユニバース)の概念を区別するために用いられている。

ご覧の通り、何らオカルティックな妖しい概念ではありません。量子力学で用いられる用語であるとも明記されていますから、『普通の科学者が使う言葉ではないようです。』という永井さんの判断も的外れでしょう。確証はありませんが「これは主にオカルトにおいて用いられる。」の部分だけ妙にぎこちない日本語になっていますから、ページ作成者が資料から翻訳などをした際に起こった直訳的な表現なのかもしれません。さらにその先には、

ウィキペディア さんが書きました:

オムニバースは木構造として考えることができる。このとき、オムニバースは幹であり、マルチバースは枝、各ユニバースは葉である。

また別の説明として、オムニバースは森としてみなすことができる。マルチバースは森の木々でありユニバースは木の枝、さらにすべての枝と葉はその宇宙の中の地平の集合である。

スティーブン・ホーキングやロジャー・ペンローズのような物理学者は、道路や経路図のような体系として視覚化できるような分岐・結合する宇宙を示唆している。

と、オムニバースの概念を寓話的に説明しながら、ホーキング博士やマイクロチューブルで有名なペンローズ博士の名を挙げています。もちろんこの2人ともプロトサイエンスの領域に踏み込んでいる科学者ですから、永井さんにとっては『普通の科学者』とは呼べないのかもしれません。しかしそれを言うならば、永井さんが使用を提唱された「マルチバース」も、プロトサイエンスの領域に属する概念ですよ。

永井俊哉 さんが書きました:

それはともかくとして、論理的に言って、世界は一かその否定(多)かのどちらかであり、ユニバースでなければマルチバース、マルチバースでなければユニバースです。よって、これ以外の概念は不要です。マルチバース間の包摂関係を表現するなら、レベルで区別すればよいでしょう。

ホーキング博士やペンローズ博士は、各用語をそのようには整理されていないようですよ。今一度、Wikiの該当ページを精読されることをお勧めします。もしかすると、「オカルト」という用語と出会った時点で永井さんがその先を読むことを辞めてしまった可能性もございますので。

永井さんの基準の選択に必然性はないと思います。
投稿者:こうもり.投稿日時:2014年3月27日(木) 09:29.

それでは本編に戻ります。私は人間の恣意、主体、自由意志、心の在り方を「不確定性」に見出しています。外部からの入力に決まり切った反応しか出力できないコンピューターや、意志を持たない(と思われる)原生生物とは違って、人間はプログラムのみに従って動いているものではなく、また、本能のみに生きているのでもないと考えます。永井さんのおっしゃるように『生命を維持するようにプログラムされている』ことは事実でしょうが、それ以上に複雑な心模様を抱えているのが人間です。以下のような、秋刀魚刺身さんやmuuさんとのやり取りでも、永井さんは同様の主張をされておりました。自由意志を持たない生物にそういった主張を当て嵌めることに異存はないのですが、こと人間のこととなると違和感をおぼえずにはいられません。

永井俊哉 さんが書きました:

生命は、その誕生以来、自己保存が自己目的的にプログラムされていますが、重点は全体の保存に向けられており、部分の保存は、その手段として位置付けられています。例えば、多細胞生物では、癌化した細胞を取り除くなど、個体の自己保存のためにアポトーシス(apoptosis)と呼ばれる細胞の死が実行されます。全体の存続のために部分を犠牲にするという現象は、個体よりも上位の集団でも見られることがあります。

永井俊哉 さんが書きました:

一般的に言って、人間の欲望は、高級になればなるほど内容は多様となり、個人差が大きくなります。逆に、低級になればなるほど内容は画一的になり、個人差が小さくなります。「死にたくない」とか「病気になりたくない」といった基礎的欲望は、後者に属し、万人に共通だから法律で画一的にその欲望を満たす方が効率的なのです。これに対して、高級な欲望に関しては、個人差が大きいので、その欲望の満たし方に政府は介入するべきではありません。個人の自由な選択に委ねるべきです。

私にとって「生きるべきか、死すべきか」という問題は極めて高級な問題となります。「何のために生まれてきたのか」「なぜ生きるのか」「何のために生きるのか」という問題は哲学の主題や文学の主題となり得る、極めて人間らしい問題です。これらの命題に、『生命を維持するようにプログラムされている』から、などという解を求める哲学者や文学者はいないでしょう。

確かにあらゆる生物には「自己保存」のための機能とプログラムが備わっております。しかし自由意志を持つ我々は、その不確定性ゆえに、生きることに悩み、躓きます。おそらく原生生物は躓きません。永井さんの『まれに生きることを目指さない個体が生まれることはあっても、まさに生きることを目指さないがゆえに、すぐに消滅してしまいます。』という表現からは、不確定性を持つ心により苦悩する人間の姿よりも、進化論における突然変異のような例が想起されます。こういった人間観のズレに、我々の相違が表れているのかもしれません。

永井俊哉 さんが書きました:

こうもり さんが書きました:

「自殺は悪だ」とする根拠を『生命の維持』に求めるのも永井さんの恣意に過ぎないのですから、万人が従うべき「善悪」の価値には成り得ないのではないか、という批判です。

もしもこうもりさんにとって、生きることを選ぶか、あるいは死ぬことを選ぶかが恣意にすぎないのなら、なぜこれまで生きることを選び続けたのですか。

そうです。私にとって『生きることを選ぶか、あるいは死ぬことを選ぶか』はまさに私の恣意、つまり私の主体的な自由意志の問題なのです。プログラムの問題ではありません。秋刀魚刺身さんは『幸福』のために生きるとおっしゃっていました。muuさんは「人間が持つ欲望の個人差、多様性」を訴えていました。どちらも、お二人の自由意志、「恣意」による判断でしょうし、多くの人からの同意も得られるような一般的で、人間的な考え方だと思います。そしてこのような考え方を持つ以上、お二人とも『生きることを選び続け』ることでしょう。一方、永井さんの『生命体は、この地球に誕生して以来、生命を維持するようにプログラムされているので、価値基準を受け入れるかどうかを恣意的に決めることはできません。』とする考え方も、私には永井さんの「恣意」による産物だとしか思えません。しかも下等な生物にしか当て嵌まらない、非人間的な考え方のように思えます。

また、『なぜこれまで生きることを選び続けたのですか。』というご質問は、私個人の考え方をお訊きになっている様にも読めますので、それにもお答えしましょう。私は以前に触れたように、「人は物語、詩、夢のために生きている」という考えを持っております。まさにverseのためです。人はそれぞれの持つ自由意志の不確定性により、それぞれ異なる物語を自身の歴史に紡ぎます。中には苦悩の果てに、「愛する者のために自死を選ぶ」人もいるでしょうし、「自分の信念を貫くために自決」する人もいるでしょう。しかし、そんな人たちも自殺の瞬間までは『生きることを選び続け』るものです。人は原生生物とは違って、自由意志によって生死を選択し続けながら生きているのです。つまり、人は不確定性によって「自殺を選ぶ自由」さえも獲得したということです。

それを永井さんは、『いったん基準を受け入れるなら、「真偽」から「善悪」を導くことができます。』と宣言された上で、その「基準」を『だから、私たちが生きることを目指すのは必然であり』と、「必然」に昇華させ、『客観的な必然性を持つことになる』と帰結されています。「基準を受け入れることが必然」となるのなら、私が生きている以上、必然的にその基準を受け入れなければならないということになるのでしょうか。私はそんな原生生物のような生き方をしたくはありません。自分の「自由意志」に従って生きて行きたいと望んでいます。ですから、「真偽」から「善悪」は導けないと主張しているのです。

永井俊哉 さんが書きました:

社会は、私たちが理想を実現しようとする行為に基づいて作られるのであって、私たちの理想追求から離れて勝手にできるという類のものではありません。だから、社会が将来どうなるのかという話は、社会がどうあるべきかという話と本来切り離すことができないのです。もしも社会が望ましくない方向に向かっていると判断するなら、なぜそれが望ましくないのか、そしてそれを阻止するにはどうすればよいのかを語ることが責任ある言論人のするべきことでしょう。

おっしゃる通りです。一見、『本来切り離すことができない』ように思えるものだからこそ、『社会がどうなるのか』という「真偽」によって予測出来る事実と、自分の恣意が絡む『社会がどうあるべきか』という「善悪」の価値を、慎重に切り離さなければなりません。それこそが、責任ある言論人に求められる態度でしょう。私も「どうあるべきか」という価値を語りますし、「英語による授業」についてのような価値を語り合う議論にこそ意義を見出しております。しかし同時に、常にそれが私の自由意志、恣意によるものだと意識、自覚するようにつとめております。ですから全体主義的な押しつけに拒絶反応が起こるのです。数々の「主義」や「イズム」、「イデオロギー」が、社会的評価の高い言論人によって提唱され、凄惨な歴史をもたらしたことは紛れもない事実ですから。

永井俊哉 さんが書きました:

もしも普遍性が不要なら、なぜ私たちはこのフォーラムで議論をしているのでしょうか。こうもりさんは、「皆さんのご意見を伺いたい」と言って最初の投稿をしました。もしもこうもりさんが普遍性を求めていないなら、他人の意見など求める必要はなく、自分のユニバースに籠って、瞑想にでも耽っていればよいのではないでしょうか。

『普遍性が不要』だとも『普遍性を求めていない』とも書いておりません(こう書くと再度「私は、こうもりさんが「普遍性が不要」と述べているとは書いていません。」と言われてしまいそうですが…)。「軋轢が軽減されるだろう」「軋轢を感じずに済むだろう」と予測しているのです。くれぐれも軽減されるのは「普遍性」ではなく、「軋轢」です。「普遍性」はverseの階層が上がるにつれて強固に担保されるようになります。そして何故、私が『自分のユニバース籠って、瞑想に耽』ることをせずに、こちらのフォーラムで議論をさせて頂いているのかの説明は、以前の私の文を再掲すれば、ご理解いただけるかと存じます。

こうもり さんが書きました:

またこれも誤解を避けるためにことわって置きたいのですが、私は人と人とのコミュニケーションを否定している訳でもありません。確かに「檻の中に閉じ込められ」、完全な意思疎通は不可能な「主体」「心」「自由意志」を持つのが人間という存在の宿命ではあります。しかし、完全な意思疎通が出来ないからといって、コミュニケーションを諦めるのではなく、出来ないからこそ人は語り合うものだと認識しております。このパラドックスは「海は世界を分断するものなのか、結ぶものなのか」という比喩に似て、そもそも人々の心が差異もなくひとつならば、コミュニケーションなど不要なのです。それぞれが異なるからこそ、語り合い、求め合うのが人間だと思います。ですからそれぞれが判断する「善・悪」の価値は、大いに語り合い、意見交換すべきです。しかし押しつけや強制はすべきではありません。例えば「タバコは善である」or「悪である」という一般人でも、研究者の間でも意見の分かれる価値観を、法制化して、国民全員に強制することには反対ですし、もうそんな時代でもないでしょう。第三次パラダイムは全体主義的な強制など通用しなくなり、各個人が自由な主体性の元で、マルチバースを形成し、地下茎により価値の交換をしていく時代なのです。

二つの投稿に対する回答
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2014年3月27日(木) 12:18.

まずは、二つ前の投稿から、回答しましょう。

こうもり さんが書きました:

確かにそこだけ抜き出せば、『こうもりさんにはオカルト趣味があるのでしょうか。』と、今回の議論とはまったく関係ない私の人格とその評価に関する指摘を記述をすることも可能です(永井さんは常日頃からそのような行為を非難されていたはずですが)。

私がこうもりさんに対して人格攻撃をしていると言いたいのですか。それなら聞きますが、

  1. こうもりさんにはオカルト趣味があるのでしょうか。
  2. こうもりさんには音楽鑑賞の趣味があるのでしょうか。

という発言は、どちらもこうもりさんに対する人格攻撃になるのでしょうか。もしも 1 はそうだが、2 はそうではないと感じるなら、こうもりさんは、オカルト趣味を否定する価値観を持っていることになります。

私は、オカルト趣味を否定する価値観を持っているわけではありませんが、ここは「学術的議論のための掲示板」ですから、オカルトの話をされては困ります。しかし、それはここで音楽鑑賞の話をされても困るのと同じことです。そして、この発言が、オカルト趣味の人の人格を否定するのではないのは、音楽鑑賞の人の人格を否定するのではないのと同じことです。

こうもりさんは「今回の議論とはまったく関係ない」と言いますが、私はそうは思いません。例えば、こうもりさんは、2014年3月11日に次のように書きましたね。

こうもり さんが書きました:

封建時代の絶対的な神や社会が与えてくれていた「自分はなぜ生まれてきたのか」「人はなぜ生きるのか」という価値観を失った第二次パラダイムに生きる若者たちの心境は、セカイ系と呼ばれるマンガやアニメの作品群によく投影されています。絶対的な価値を与えてはくれない科学や合理性に失望し、超自然的な存在に解を求めようとする人の心が、第三次パラダイムを希求するのです。

「科学や合理性に失望し、超自然的な存在に解を求めようとする」のが、第三次パラダイムだとするなら、超自然的な存在に解を求めるオカルトも肯定されてもよさそうなものですが、そうではないのですか。こうもりさんは「科学的認識こそが唯一の正しい認識であり、オカルトには何の価値もない」という価値観を持っているのですか。それなら、これまでやってきた「科学主義としての構造主義」批判は何だったのですか。多様な価値の併存を認めるこれまでの姿勢と矛盾していませんか。

私は、「科学者はオカルト現象とどう向き合えばよいのか」で書いたとおり、オカルト的だからといって拒否するべきだとは考えていません。万有引力のように、オカルト的と思えた現象が科学的に説明できる場合すらあるのです。しかし、科学とオカルトが同じではない以上、誤解を招くような言葉の使い方はできるだけしないのが賢明かと思います。

神秘的なものを神秘的なものとして信じ込む神秘主義者と神秘的なものを神秘的であるがゆえに軽蔑して相手にしようとしない科学者の態度は、正反対のように見えて、実は神秘的なものを神秘的と受け取っている点で同じである。神秘的なものを神秘的ではないように合理的に説明しようとすることこそ科学者の取るべき態度なのである。[6]

これが私のスタンスです。

こうもり さんが書きました:

今一度、Wikiの該当ページを精読されることをお勧めします。

ウィキペディアのように、文責がはっきりしないソースを鵜呑みにすることはやめた方がよいと思います。私は、“リンク先の日本語ウィキペディアのページには、「これは主にオカルトにおいて用いられる」とあり、普通の科学者が使う言葉ではないようです”と書きましたが、これとて鵜呑みにはせずに、ある程度リサーチしてから書きました。でもリサーチが十分ではないので、断定は避けました。

こうもり さんが書きました:

オムニバースの概念を寓話的に説明しながら、ホーキング博士やマイクロチューブルで有名なペンローズ博士の名を挙げています。

こうもりさんの勧め通り、「Wikiの該当ページを精読」しました。よく読むと、「スティーブン・ホーキングやロジャー・ペンローズのような物理学者は、道路や経路図のような体系として視覚化できるような分岐・結合する宇宙を示唆している」とありますが、彼らが「オムニバース」という言葉を使っているとは書いていません。

むしろ、該当ページは、“Penrose, Roger The Road to Reality New York:2005 Alfred A. Knopf Page 784”というソースを根拠に「ロジャー・ペンローズは"オムニウム" (omnium) という語を使っている」と書いています。“The Audacity of Hype: Bewilderment, sleaze and other tales of the 21st century”という本には「スティーブン(ホーキング)は、オムニバースの存在を指摘しなかった」とあります(あまり信憑性のある本ではないようですが)。

もちろん、こうした情報も鵜呑みしてはいけません。私はスティーブン・ホーキングやロジャー・ペンローズの著作を網羅的に読んでいるわけではないので、確証はありませんが、ネットで検索して調べた限り、スティーブン・ホーキングとロジャー・ペンローズがこの言葉を使っているという証拠を見つけることはできませんでした。

なお、「それはともかくとして」と前置きしたことからもわかる通り、私がユニバースとマルチバース以外不要としたのは、論理的な理由によるのであって、オムニバースがオカルト的だからではありません。

次に、二番目の投稿に答えましょう。

こうもり さんが書きました:

確かにあらゆる生物には「自己保存」のための機能とプログラムが備わっております。しかし自由意志を持つ我々は、その不確定性ゆえに、生きることに悩み、躓きます。

選択に際して「悩む」ということは、私たちにとって選択が恣意的でないことを意味しています。そして選択が恣意的ではないということは、基準となる目的の選択が恣意的ではないということでもあります。私たちには、自由意思がありますが、その自由は、手段を選ぶ自由であって、究極目的を選ぶ自由ではないのです。私たちが、恣意的に究極目的を選んでいるのなら、「どうなろうが、どうでもよい」ということで、選択の際に悩むということはそもそもないはずです。究極目的が必然であるからこそ、その目的を実現するために、どの手段が因果的に効果的であるかを自由意思で悩みながら判断しなければならないのです。

こうもり さんが書きました:

私は以前に触れたように、「人は物語、詩、夢のために生きている」という考えを持っております。まさにverseのためです。

ここで、さらに「なぜ人は物語、詩、夢を求めるのか」を問うてみたいと思います。物語、詩、夢はフィクションであり、フィクションは生命の維持には貢献していないように見えます。しかし、私はそうは考えません。これについては、以前それを説明した箇所「無用の用」を引用しましょう。

人類は、生存と直接関係のない娯楽に多くの資源を費やしている種で、そのため、オランダの歴史家ホイジンガは、通常「英知あるヒト(Homo sapiens)」と規定されている現生人類を「遊ぶヒト(Homo ludens)」と規定したぐらいです。人類の遊び好きは、しかしながら、人類を破滅に導くどころか、むしろ生存競争における人類の優位をもたらしたと私は考えています。

ここで、遊ぶことにより人はどのような能力を獲得しているのかを考えてみましょう。私たちは、スポーツをしたり、異国の土地を観光に訪れたり、小説、漫画、ドラマ等のフィクションで空想の世界を楽しんだりして遊びます。こうした遊びに特徴的なことは、仕事とは異なる世界を体験することです。つまり、人は、遊ぶことで、現状とは他のようでありうる可能性を作り出す能力を獲得するのです。

そして、この能力こそが、イノベーションという人類に特徴的な能力の基礎となっていると考えることができます。現状とは他のようでありうる諸可能性を想像する能力のない人は、新しいものを作ることはできません。秋刀魚刺身さんが大きな価値を見出している科学技術の進歩も、科学者や技術者に遊び心があってこそ初めて可能なのです。

一般的に言って、システムが存続し続けるためには、環境適応力と変化適応力という相反する二つの能力が必要です。「よく遊びよく学べ」とはよく言ったもので、前者は変化適応力を、後者は環境適応力を高めよという教えとして解釈することができます。環境適応にばかり力を入れてると、環境が変化した時、それに適応できなくなるから、バランスが必要ということです。

結局のところ、有限な認識能力しかない私たちは、どの知識が役にたつのか、それとも役にたたないのかを事前に確定することはできないので、さしあたり役に立ちそうにない知識にも好奇心を持つことには、二つの適応力を涵養するという点で合理性があります。初めから、役に立つことしかしないというように視野を狭く限定すると、これまで役に立っていたシステムがうまくいかなくなった時、困ってしまいます。普段から、遊びを通じて様々な可能性をシミュレーションをしている人の方が、そうした困難を克服しやすいのです。[7]

これを読めば、なぜ進化のプロセスで、自由意思を持つ生命が誕生し、その種が現在大いに繁栄しているのか、なぜその種は好んで遊ぶのかがわかるかと思います。要するに、変化適応力があり、かつそれに磨きをかけなければいけないからということです。

こうもり さんが書きました:

私も「どうあるべきか」という価値を語りますし、「英語による授業」についてのような価値を語り合う議論にこそ意義を見出しております。しかし同時に、常にそれが私の自由意志、恣意によるものだと意識、自覚するようにつとめております。ですから全体主義的な押しつけに拒絶反応が起こるのです。数々の「主義」や「イズム」、「イデオロギー」が、社会的評価の高い言論人によって提唱され、凄惨な歴史をもたらしたことは紛れもない事実ですから。

謂う所の「全体主義的な押しつけに拒絶反応が起こる」というその現象こそが、私が言っている「個と普遍の軋轢」です。その軋轢を軽減するということは「全体主義的な押しつけに拒絶反応を起こさなくなる」ということなのですが、それでよいのですか。

善悪の判断と善悪の存在
投稿者:こうもり.投稿日時:2014年3月28日(金) 01:19.

永井俊哉 さんが書きました:

私がこうもりさんに対して人格攻撃をしていると言いたいのですか。それなら聞きますが、

  1. こうもりさんにはオカルト趣味があるのでしょうか。
  2. こうもりさんには音楽鑑賞の趣味があるのでしょうか。

という発言は、どちらもこうもりさんに対する人格攻撃になるのでしょうか。もしも 1 はそうだが、2 はそうではないと感じるなら、こうもりさんは、オカルト趣味を否定する価値観を持っていることになります。

私は恣意的な自由意志を持つ一個の人間として、これまで獲得してきた知識や経験を元にした「善悪」や「好悪」の判断を、日々不確定に行っております。簡単に言えば、毎日の生活で見聞きすることや体験することに、「これは好き、嫌い」「これは良い、悪い」という価値判断を含む感情を心に抱いている…という当たり前の行為を繰り返しています。しかしその判断の指向性は、過去からの私の知識や体験に基づいているとはいえ、時に自分でも説明のつかないような感情へと落ち着いたりもします。それが自由意志の不確定性によるものなのかどうかも判りません。当然のことながら、私が好ましいと思うものもこの世に存在しますし、嫌悪しているものもあります。しかしそれは、私の有限な(しかもかなり偏狭な)知識と体験と、自分でも説明不可能な心が生み出した価値判断ですので、常にその自分の「不完全性」を自覚するようにつとめております。「不完全」であるが故に、他の人の自由意志が生み出した価値判断に対して、語り合い、議論することは良しとしますが、規制、禁止、完全否定することには反対なのです。

永井俊哉 さんが書きました:

こうもり さんが書きました:

封建時代の絶対的な神や社会が与えてくれていた「自分はなぜ生まれてきたのか」「人はなぜ生きるのか」という価値観を失った第二次パラダイムに生きる若者たちの心境は、セカイ系と呼ばれるマンガやアニメの作品群によく投影されています。絶対的な価値を与えてはくれない科学や合理性に失望し、超自然的な存在に解を求めようとする人の心が、第三次パラダイムを希求するのです。

「科学や合理性に失望し、超自然的な存在に解を求めようとする」のが、第三次パラダイムだとするなら、超自然的な存在に解を求めるオカルトも肯定されてもよさそうなものですが、そうではないのですか。こうもりさんは「科学的認識こそが唯一の正しい認識であり、オカルトには何の価値もない」という価値観を持っているのですか。それなら、これまでやってきた「科学主義としての構造主義」批判は何だったのですか。多様な価値の併存を認めるこれまでの姿勢と矛盾していませんか。

ですから、私が嫌悪するものが存在することと、その存在自体そのものを肯定したり、否定することは別の問題です。私は自分が嫌悪するものも、この世界に存在すべきだと考えています。永井さんは、私がオカルトを否定しているからといって、オカルト趣味を持つ人の存在自体を否定しなくてはならないと主張しているのですか。私は永井さんの発言中に時に現れる、全体主義的な兆候をこれまで批判してまいりましたが、これなどもその一例になります。「こうであるなら、こうであらなければならない」という「真偽」は閉じられた系の中では有効ですが、それを自由意志を持つ他人に当て嵌めることはできない、というのが私の考え方です。「真偽」から「善悪」を導けるとする永井さんとは、この点に於いて相容れない気がします。

永井俊哉 さんが書きました:

こうもり さんが書きました:

私も「どうあるべきか」という価値を語りますし、「英語による授業」についてのような価値を語り合う議論にこそ意義を見出しております。しかし同時に、常にそれが私の自由意志、恣意によるものだと意識、自覚するようにつとめております。ですから全体主義的な押しつけに拒絶反応が起こるのです。数々の「主義」や「イズム」、「イデオロギー」が、社会的評価の高い言論人によって提唱され、凄惨な歴史をもたらしたことは紛れもない事実ですから。

謂う所の「全体主義的な押しつけに拒絶反応が起こる」というその現象こそが、私が言っている「個と普遍の軋轢」です。その軋轢を軽減するということは「全体主義的な押しつけに拒絶反応を起こさなくなる」ということなのですが、それでよいのですか。

『それでよい』人がいても良いと思います。つまりできるだけ他人とは干渉し合わずに、『自分のユニバースに籠って、瞑想にでも耽』りながら生きる人の存在も、私の価値観とは異なる人たちですが、私が善し悪しを判断するべきことではありません。そのような人たちが「軋轢」を極力感じずに済む生き方を提供できるのも第三次パラダイムのメリットです。一方私は、他人と語り合い、価値を交換することに意義を見出しておりますので、当然「軋轢」を感じることになります。オカルト趣味の人や、カルト、疑似科学を信奉する人とお話をすることもあるかもしれませんし、全体主義的な価値観を持つ人とも議論を交えるかもしれません。ですから「拒絶反応」は起こるでしょう。しかし第三次パラダイムでは、その選択も自由になります。

永井俊哉 さんが書きました:

私は、「科学者はオカルト現象とどう向き合えばよいのか」で書いたとおり、オカルト的だからといって拒否するべきだとは考えていません。万有引力のように、オカルト的と思えた現象が科学的に説明できる場合すらあるのです。

永井俊哉 さんが書きました:

ここで、さらに「なぜ人は物語、詩、夢を求めるのか」を問うてみたいと思います。物語、詩、夢はフィクションであり、フィクションは生命の維持には貢献していないように見えます。しかし、私はそうは考えません。これについては、以前それを説明した箇所「無用の用」を引用しましょう。

それよりも、このような永井さんの価値判断の仕方に、やはり反感を憶えます。永井さんが『究極目的』として設定されているのは『生命の維持』でしょうから、当然あらゆる事象をその目的に貢献するか否かで判断してしまうのは理解出来ます。その結果、『フィクションには、シミュレーションの可能性を高めるという機能があり、この機能という観点から、価値があったりなかったりします。』などという、当の作家や文学研究者が聞いたら怒りだしてしまいそうな価値観を語ってしまうのも頷けます。

しかし私にとっては『生命の維持』よりも、不確定な「自由意志」の方がプライオリティーを持ち得ますので、オカルトやフィクションをその有用性で判断しようとは思いません。どれも不確定な心が生み出した産物ですので、存在するだけでその価値はあるのです。もちろん適応力を高めるためにも多様性は大切ですが、多様性は多様であるだけで価値があります。それは不確定性により生まれる自由意志、人の心の在り方がまた多様だからです。永井さんが『この機能という観点から、価値が』ないと判断されるような文学作品も、不確定性により多様になった心の持ち主にとっては、その心の拠り所となったりするものです。

ですから、冒頭の『もしも 1 はそうだが、2 はそうではないと感じるなら、』などという仮定も、私にとってはそんな単純なものではありません。ここまで来て種明かしするのもなんですが、私はオカルトは好きです。たった今も、タイムリーにテレビで放送していたUFO、UMA、超能力についての2時間特番を最初から最後まで、この文を打ちながら小学一年の娘と一緒に観てしまいました。しかし、そういった超常現象を信じてはおりません。娘は怖がって私に抱きついてきて邪魔でしたが、そういう私が信じてもいない内容の番組を敢えて見せることも大切だと考えておりますし、自分も楽しんで観てしまいました。そんな私ですから『こうもりさんにはオカルト趣味があるのでしょうか。』と問われても困ってしまいます。逆に問いたいくらいです。私にはオカルト趣味があるのでしょうか。娘にそんな番組を見せるのはおかしいのでしょうか。このように敢えて書いた私の身の上話が、今回の議論において、何かお役に立ちましたか。『こうもりさんは「今回の議論とはまったく関係ない」と言いますが、私はそうは思いません。』とおっしゃる永井さんは、私がオカルトを否定するのなら、オカルト趣味の人もテレビ番組も否定しなくてはならないと言っているのですか。それとも何か他の関係があるのでしょうか。私にオカルト趣味があるとしたら、『学術的議論のための掲示板』で、議論をする資格がないということですか。

ただ明確に言えることは、このような私の個人的な事情は、やはり今回の議論とまったく関係がないということです。ある科学的な論文が、科学的ではない現象をその論拠にしているのなら問題があるでしょうが、その執筆者の宗教や性癖や貧富や学歴などはまったく関係のない要素になります。「その用語はオカルト的な意味で使っているのですか?」という質問ならまだしも、『こうもりさんにはオカルト趣味があるのでしょうか。』と問うことは、まさしく「今回の議論とはまったく関係ない私の人格とその評価に関する指摘を記述」する行為にほかなりません。なぜ私に「オカルト趣味があるかどうか」をお訊きになったのですか。単なる素朴な疑問としてなら、軽率に過ぎませんか。私は論者の身の上と、その主張内容は切り離して評価する質ですが、そうでない人もたくさんいますから、意図的な印象操作だと受け取られても仕方のない行為となってしまいます。

そして最後にひとつ、今回の永井さんの記述で理解出来ない箇所がございました。

永井俊哉 さんが書きました:

選択に際して「悩む」ということは、私たちにとって選択が恣意的でないことを意味しています。そして選択が恣意的ではないということは、基準となる目的の選択が恣意的ではないということでもあります。私たちには、自由意思がありますが、その自由は、手段を選ぶ自由であって、究極目的を選ぶ自由ではないのです。私たちが、恣意的に究極目的を選んでいるのなら、「どうなろうが、どうでもよい」ということで、選択の際に悩むということはそもそもないはずです。究極目的が必然であるからこそ、その目的を実現するために、どの手段が因果的に効果的であるかを自由意思で悩みながら判断しなければならないのです。

こちらの方が、今回の議論の核心となる問題だと思うのですが、永井さんの理屈がよく呑み込めませんでした。私は『選択に際して「悩む」ということは』、その選択に「自由意志」や「恣意」が絡んでいる何よりの証拠だと考えます。反対に、自由意志を持たないコンピューターは選択に悩みません。また、『恣意的に究極目的を選んでいるのなら、「どうなろうが、どうでもよい」ということ』という理屈もよく判りません。恣意的であっても究極目的が選ばれているのなら、「どうなろうが、どうでもよい」と人は判断しないと思います。「どうなろうが、どうでもよい」時というのは、必然的であろうが、恣意的であろうが、目的が存在しない時なのではありませんか。

論理の問題
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2014年3月28日(金) 12:44.

こうもり さんが書きました:

永井さんは、私がオカルトを否定しているからといって、オカルト趣味を持つ人の存在自体を否定しなくてはならないと主張しているのですか。私は永井さんの発言中に時に現れる、全体主義的な兆候をこれまで批判してまいりましたが、これなどもその一例になります。「こうであるなら、こうであらなければならない」という「真偽」は閉じられた系の中では有効ですが、それを自由意志を持つ他人に当て嵌めることはできない、というのが私の考え方です。「真偽」から「善悪」を導けるとする永井さんとは、この点に於いて相容れない気がします。

いかなる相対主義者であっても、絶対に守らなけれなならない鉄の法則があります。それは矛盾律です。矛盾律を否定すると、すべてが意味を失うので、あらゆる命題は、真でも偽でもなくなってしまいます。矛盾律を否定することは、情報システムの自殺行為であり、学問的議論においては無条件に認められません。

私は、こうもりさんが、一方で「科学や合理性に失望し、超自然的な存在に解を求めようとする人の心が、第三次パラダイムを希求する」と肯定的な発言をし、他方で、オカルト趣味があることを「私の人格とその評価に関する指摘」と否定的に言っているから、そこに矛盾がないのかどうかを聞いたのです。「新しいパラダイムが相対的なのか絶対的なのか」という問題と同様に、これは論理の問題です。私が特殊な価値観を他人に押し付けているのではないのですから、全体主義的な兆候とは言えないでしょう。

こうもり さんが書きました:

『それでよい』人がいても良いと思います。つまりできるだけ他人とは干渉し合わずに、『自分のユニバースに籠って、瞑想にでも耽』りながら生きる人の存在も、私の価値観とは異なる人たちですが、私が善し悪しを判断するべきことではありません。

そう考えていること自体が、「全体主義的な押しつけに拒絶反応が起こる」結果ということができます。

こうもり さんが書きました:

私にとっては『生命の維持』よりも、不確定な「自由意志」の方がプライオリティーを持ち得ますので、オカルトやフィクションをその有用性で判断しようとは思いません。

生命維持が究極目的であるということは、必ずしもすべての意識を持った生命が自覚しているところではありません。私たちは「有用性を越えた価値」を求めたがるものですが、それは、有用性を無視した方が、かえって有用性が高まるからです。特に画期的なイノベーションを起こす時には、何の役に立つかということはさしあたり無視した方がよいことがあるのです。

こうもり さんが書きました:

永井さんが『この機能という観点から、価値が』ないと判断されるような文学作品も、不確定性により多様になった心の持ち主にとっては、その心の拠り所となったりするものです。

まだこうもりさんは、環境適応と変化適応の違いを理解していないようです。現時点で価値がないと判断していることでも、価値があるかもしれないからこそ、多様性は肯定されるのです。

こうもり さんが書きました:

私は『選択に際して「悩む」ということは』、その選択に「自由意志」や「恣意」が絡んでいる何よりの証拠だと考えます。

究極目的を選ぶ自由と手段を選ぶ自由を混同していませんか。私たちが悩むのは、手段を選ぶ自由があるからです。

こうもり さんが書きました:

反対に、自由意志を持たないコンピューターは選択に悩みません。

悩むための条件は、「自由意思がある」かつ「究極目的の設定は恣意的ではない」かつ「目的実現の最適手段がわからない」です。ということは、「自由意思がない」または「究極目的の設定が恣意的である」または「目的実現の最適手段がわかっている」という条件のいずれかが成り立つなら、「悩まない」ということになります。

ここからわかるように、自由意思がないから悩まないというのは一つのケースにすぎず、これ以外にも、目的実現の最適手段がわかっているから悩まないという場合もあります。しかし、「自由意思がある」かつ「目的実現の最適手段がわからない」という条件を満たしながら、「究極目的の設定が恣意的である」という条件のおかげで、「悩まない」という場合もあるということです。

こうもり さんが書きました:

「どうなろうが、どうでもよい」時というのは、必然的であろうが、恣意的であろうが、目的が存在しない時なのではありませんか。

目的が存在しないというケースは、「目的の設定が恣意的である」場合の一つとみなすことができます。つまり、何を目的としてもよいということは、ゼロの目的をも選ぶことができるということです。もしも、目的の設定を恣意的にすることができるなら、絶えず実現可能な目的(ゼロの目的も含む)を選び続けることで、死ぬまで全く悩まない人生を送ることができます。しかし、ごく一部の狂人を除けば、「どうなろうが、どうでもよい」という人生を送ることはありません。たいていの人は、悩みながら、どう生きればよいのかを考えるものなのです。

人の心は『論理の問題』の外にあるのではありませんか
投稿者:こうもり.投稿日時:2014年3月28日(金) 23:29.

永井俊哉 さんが書きました:

いかなる相対主義者であっても、絶対に守らなけれなならない鉄の法則があります。それは矛盾律です。矛盾律を否定すると、すべてが意味を失うので、あらゆる命題は、真でも偽でもなくなってしまいます。矛盾律を否定することは、情報システムの自殺行為であり、学問的議論においては無条件に認められません。

そうですね。システム、閉じられた系の中では無矛盾律を守らなければ「真偽」は導けませんね。一方、人の心はシステムの外にあり、矛盾を抱えるものだという私の考えはご理解頂いているでしょうか。ですから私は、他人に「矛盾していますよ」「こうすれば矛盾は解消されますよ」と進言することはあっても、矛盾を抱えることを禁止したり、その人の存在を否定したりはしないのです。禁止したり、否定したりすればそれは全体主義になります。私も間違いは犯しますし、永井さんも間違えることはあるでしょう。システムを超えてその正当性を担保できる真理など、この世にないと思いますから、強制は良くありません。

永井俊哉 さんが書きました:

私は、こうもりさんが、一方で「科学や合理性に失望し、超自然的な存在に解を求めようとする人の心が、第三次パラダイムを希求する」と肯定的な発言をし、他方で、オカルト趣味があることを「私の人格とその評価に関する指摘」と否定的に言っているから、そこに矛盾がないのかどうかを聞いたのです。「新しいパラダイムが相対的なのか絶対的なのか」という問題と同様に、これは論理の問題です。私が特殊な価値観を他人に押し付けているのではないのですから、全体主義的な兆候とは言えないでしょう。

『そこに矛盾がないのかどうかを聞いたのです。』聞いた結果、矛盾がなかったことは、前回の私の説明で明らかになりませんでしたか。私の「自分が喫煙を否定していたとしても、喫煙を禁止したり、喫煙者の存在を否定したりしない」という姿勢に、矛盾はありませんよね。反対に、永井さんが「喫煙は合理的ではない」と判断するからといって、その禁止を法制化しようとするのは、全体主義的な兆候だと思います。『私が特殊な価値観を他人に押し付けているのではないのですから、全体主義的な兆候とは言えないでしょう。』というのも……「特殊じゃないから他人に押し付けても良いだろう」ということですか? それはやはり、全体主義にあたるのではないですか。私にとっては永井さんの「生命維持=究極目的」という説も特殊だと感じられますし。

永井俊哉 さんが書きました:

生命維持が究極目的であるということは、必ずしもすべての意識を持った生命が自覚しているところではありません。私たちは「有用性を越えた価値」を求めたがるものですが、それは、有用性を無視した方が、かえって有用性が高まるからです。特に画期的なイノベーションを起こす時には、何の役に立つかということはさしあたり無視した方がよいことがあるのです。

進化の過程においては、「生命維持の為のプログラム」が先に、「自由意志」が後から獲得された形質であろうことは想像に難くありませんが、結果としては「自由意志」にプライオリティーがあり、「生命維持」は副次的な位置に落ち着いたのだと私は考えます。自分にとって確かなものは自分の意識、心、主体、「自由意志」だけだという、極めてオーソドックスな考え方を私はしております。「生きるために生きる」よりも「どう生きるのか」の方が人間にとって重要な課題だと思います。究極、自分が蝶の見ている夢だったり、意識だけの存在だったりする可能性も否定はしきれません。

永井俊哉 さんが書きました:

こうもり さんが書きました:

永井さんが『この機能という観点から、価値が』ないと判断されるような文学作品も、不確定性により多様になった心の持ち主にとっては、その心の拠り所となったりするものです。

まだこうもりさんは、環境適応と変化適応の違いを理解していないようです。現時点で価値がないと判断していることでも、価値があるかもしれないからこそ、多様性は肯定されるのです。

その両者の違いは理解しているつもりです。私が主張しているのは、現時点での環境適応における価値があるかないかとか、将来の変化適応への価値があるかないかの判断を超えて、文学作品の多様性にも、人の自由意志の多様性にも、存在するだけでその価値があるということです。もちろんこの概念は、先ほどの「生命維持」よりも「自由意志」にプライオリティーがあるという条件がクリアーされなければ成り立たない考え方です。

それから前回、『そして最後にひとつ、今回の永井さんの記述で理解出来ない箇所がございました。』と質問させて頂いた部分が、今回ご返答を頂いても未解決になってしまいました。まず前々回の

永井俊哉 さんが書きました:

選択に際して「悩む」ということは、私たちにとって選択が恣意的でないことを意味しています。

という記述と、今回の

永井俊哉 さんが書きました:

究極目的を選ぶ自由と手段を選ぶ自由を混同していませんか。私たちが悩むのは、手段を選ぶ自由があるからです。《中略》悩むための条件は、「自由意思がある」かつ「究極目的の設定は恣意的ではない」かつ「目的実現の最適手段がわからない」です。ということは、「自由意思がない」または「究極目的の設定が恣意的である」または「目的実現の最適手段がわかっている」という条件のいずれかが成り立つなら、「悩まない」ということになります。

というご説明が、私には矛盾しているように読めます。

『選択に際して「悩む」ということは、私たちにとって選択が恣意的でない』のに、『悩むための条件は「自由意志がある」』だとするのはどういうことでしょう。私の読みが足りないだけかもしれませんが、「選択が恣意的でない」のに「自由意志が必要になる」というこの部分が矛盾しているように思えます。

それ以外の部分は、今回の説明で理解することができました。ありがとうございました。ただやはり同意には至らず、私は「究極目的の設定が恣意的である」場合でも、人は「悩む」ものだという考えを変えてはおりません。生命の維持を究極目的だと考えない人(永井さんの言い方だと『自覚』しない人)でも、悩む人が多いからです。究極の目的が「愛」でも「幸福」でも「信条」でも人は悩みます。そして最初からゼロの目的を選ぶ人が少ないから、「どうなろうがどうでも良い」という人生を送る人が少ないのです。また後になって「どうでも良い」という心境にいたる人が実際に存在するのは、何か大きな不幸を味わった結果、その目的に挫折したとか、何かの悟りを開いた結果、解脱のようなことができたからだと説明できます。つまり目的が恣意的だったからこそ、挫折や悟りによってゼロになることもあるのです。究極目的が必然的だったら、ゼロにはならないはずですし、「どうでも良い」と思う人が実際にいる事実を、永井さんのように『ごく一部の狂人を除けば』と、狂人のせいにしなければ説明がつかなくなるのは確かです。しかし私には「どうでも良い」と思う人々が、なにも狂人ばかりだとは考えられないのです。

最後に今回も一つ。結局『こうもりさんにはオカルト趣味があるのでしょうか。』という私の人格に関するご質問は、今回の議論に何も寄与していないように思えるのですが、どうなのでしょう?

プレ近代への後退かそれともポスト近代への進化か
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2014年3月29日(土) 16:32.

こうもり さんが書きました:

一方、人の心はシステムの外にあり、矛盾を抱えるものだという私の考えはご理解頂いているでしょうか。

人の心は、情報システムそのものであり、情報システムから離れてどこかに存在するということはありません。情報システムが矛盾を抱えることは事実としてありますが、矛盾律は、規範であり、事実として成り立つ法則ではないことに注意してください。矛盾が発生すると、情報システムのエントロピーが増大するので、このエントロピーを縮減しないと、情報システムが情報システムとして存続できなくなります。だから、情報システムは、矛盾を回避しなければならないのです。

矛盾の肯定は、情報システムの自殺行為です。矛盾を肯定すると、「人の心は『論理の問題』の外にある」と言っても、それは「人の心は『論理の問題』の外にない」をも意味し、「自由意志にプライオリティーがある」という主張は、「自由意志にプライオリティーがない」という主張にもなります。矛盾律を守らないと宣言したとたん、あなたが何を言おうとも、あなたはただ口をパクパクさせて、空気を振動させているだけで、何も言っていないことになります。

こうもり さんが書きました:

私も間違いは犯しますし、永井さんも間違えることはあるでしょう。

矛盾律以外のすべての命題は間違っている可能性があります。「すべての価値の究極的な根拠となる究極目的は、生命の維持である」という私の主張も、あくまでも一つの仮説であり、絶対的な真理ではありません。だから、自分の仮説を他人に強制することはしません。説得力があると感じるかどうかは読者にお任せすることにしています。

こうもり さんが書きました:

「特殊じゃないから他人に押し付けても良いだろう」ということですか? それはやはり、全体主義にあたるのではないですか。

どこの国でも、法律は、様々な行為を禁止していますが、民主主義国家においてすら、その禁止に完全な国民のコンセンサスが得られているわけではありません。間違っているかもしれないことによるデメリットと正しいかもしれないことによるメリットの二つを比べて、どちらが大きいかということを多数決で判断して立法が行われているのです。司法においても、冤罪の可能性がゼロでないと有罪判決を出してはいけないなどと言えば、有罪判決を出すことがほぼ不可能になってしまいます。蓋然性に基づいて公的意思決定がなされていることをもって全体主義というなら、すべての国は全体主義ということになります。

こうもり さんが書きました:

進化の過程においては、「生命維持の為のプログラム」が先に、「自由意志」が後から獲得された形質であろうことは想像に難くありませんが、結果としては「自由意志」にプライオリティーがあり、「生命維持」は副次的な位置に落ち着いたのだと私は考えます。

もしも本当に「生命維持」よりも「自由意志」にプライオリティーがあると考えているのなら、「殺人の自由を認めろ」とか「核兵器による先制攻撃の自由を認めろ」とか主張してみてください。そして、周囲から批判された時には「自由を認めないのは全体主義だ」という得意の反論もお忘れなく。それで周囲から「狂人」扱いされないかどうか、御自分で実験してみれば、結果に納得することができるようになるのではないでしょうか。

こうもり さんが書きました:

『選択に際して「悩む」ということは、私たちにとって選択が恣意的でない』のに、『悩むための条件は「自由意志がある」』だとするのはどういうことでしょう。私の読みが足りないだけかもしれませんが、「選択が恣意的でない」のに「自由意志が必要になる」というこの部分が矛盾しているように思えます。

そう思うのは、何度も言うように、こうもりさんが究極目的を選ぶ自由と手段を選ぶ自由を混同しているからでしょう。

こうもり さんが書きました:

結局『こうもりさんにはオカルト趣味があるのでしょうか。』という私の人格に関するご質問は、今回の議論に何も寄与していないように思えるのですが、どうなのでしょう?

今回の議論を振り返ってみると、こうもりさんがオカルトを肯定しているかどうかということを確認したことは、矛盾の有無を問うた以上に重要な意味を持っていたと思われます。

2014年2月07日(金) 18:23 に こうもり さんが書きました:

「メタユートピア」という用語を多用しましたが、あくまでも私は第三次パラダイムシフトを真のユートピアの到来のように楽観的には捉えてはおりません。大きな物語が各島宇宙へと分化する中で、新興宗教や疑似科学などがサイバーカスケードによって跳梁跋扈する、結構なディストピアになるんじゃないかとも危惧しております。

ここを読むと、こうもりさんは新興宗教(カルト)や疑似科学(オカルト)を価値的には否定しつつも、第三次パラダイムシフトをそうしたものが跳梁跋扈しやすくなる時代の到来と予測していることが窺えます。「絶対的な価値を与えてはくれない科学や合理性に失望し、超自然的な存在に解を求めようとする人の心が、第三次パラダイムを希求する」という例の件からもそう推測できます。こうもりさんは、「第三次パラダイム」に対する価値判断を留保していますが、以前述べたように、それでは無責任です。未来の社会のあり方を語る以上は、どうあるべきかにまで踏み込んで語るべきでしょう。

私は、情報革命は1973年頃に起きたと言いましたが、このころ、米国では、反戦運動から発展した「ニューエイジ・サイエンス」なる反近代主義運動が自然科学の分野で起き、オカルト的な疑似科学がもてはやされました。この運動は、日本では「ニューサイエンス」と呼ばれ、米国でもこの言葉が使われるようになったのですが、リオタールの『ポストモダンの条件』(1979年)に端を発するポストモダニズムもこれと傾向を同じくする反近代主義と言うことができます。中沢新一のように、オカルト的なポストモダニズムからオウム真理教のようなカルトに接近した思想家もいましたが、私が考える情報社会としてのポスト近代は、プレ近代への後退にすぎないポストモダンとは一線を画しているつもりです。

以上のような思想史的問題意識ゆえに、このスレッドのトピックである「情報化時代のパラダイムシフト」を語る時、謂う所の「新しいパラダイム」なるものが、オカルトやカルトを評価しているのかどうかを確認する必要があったのです。私はどちらも評価しませんが、オカルト趣味の人から言論の自由を奪うべきだとか、カルト信者から信仰の自由を奪うべきだとかと主張するほど「全体主義的」ではありません。

マルチバースとは後退か進化かの二択ではなく混在です
投稿者:こうもり.投稿日時:2014年3月30日(日) 00:29.

永井俊哉 さんが書きました:

こうもり さんが書きました:

進化の過程においては、「生命維持の為のプログラム」が先に、「自由意志」が後から獲得された形質であろうことは想像に難くありませんが、結果としては「自由意志」にプライオリティーがあり、「生命維持」は副次的な位置に落ち着いたのだと私は考えます。

もしも本当に「生命維持」よりも「自由意志」にプライオリティーがあると考えているのなら、「殺人の自由を認めろ」とか「核兵器による先制攻撃の自由を認めろ」とか主張してみてください。そして、周囲から批判された時には「自由を認めないのは全体主義だ」という得意の反論もお忘れなく。それで周囲から「狂人」扱いされないかどうか、御自分で実験してみれば、結果に納得することができるようになるのではないでしょうか。

また随分と飛躍的な反論をなされますね。せっかくの「学術的議論」の場なのですから、もう少し落ち着いて話し合いませんか。そして以前より提案していることですが、もう少し和やかな雰囲気があっても良いかと思います。

私が「自由意志の方がプライオリティーを持つ」と言っているのは、一個の人間内において、「生命維持のプログラム」による決定より、「自由意志」による決定の方が上位に位置しているという意味です。おそらく我々の身体にプログラムされた生命維持機能には、自律神経上で我々の意志とは関係なく働くものもあるでしょうし、我々の意志の中に「生きたい」という欲求の形でプログラムされているものもあるのでしょう。しかし自由意志は時にそれに反して「自死」を選ぶことがあります。この事実が、一個の人間内において「自由意志」が「生命維持プログラム」より優先して機能している証左だと私は考えます。永井さんのおっしゃる、究極目的は生命維持であり必然的なものだから恣意的に選択出来ない、とする説では、自殺をする個体が存在することを説明しきれないと思います。ましてや、他殺や核ミサイル攻撃とは何ら関係のある話ではありません。

永井俊哉 さんが書きました:

こうもり さんが書きました:

「特殊じゃないから他人に押し付けても良いだろう」ということですか? それはやはり、全体主義にあたるのではないですか。

どこの国でも、法律は、様々な行為を禁止していますが、民主主義国家においてすら、その禁止に完全な国民のコンセンサスが得られているわけではありません。間違っているかもしれないことによるデメリットと正しいかもしれないことによるメリットの二つを比べて、どちらが大きいかということを多数決で判断して立法が行われているのです。司法においても、冤罪の可能性がゼロでないと有罪判決を出してはいけないなどと言えば、有罪判決を出すことがほぼ不可能になってしまいます。蓋然性に基づいて公的意思決定がなされていることをもって全体主義というなら、すべての国は全体主義ということになります。

『蓋然性に基づいて公的意思決定がなされていることをもって全体主義というなら』…私はそんな事は言っていませんよ。『その禁止に完全な国民のコンセンサスが得られているわけではありません。《中略》二つを比べて、どちらが大きいかということを多数決で判断して立法が行われている』という現状は、私が理想としている「それぞれが判断する「善・悪」の価値は、大いに語り合い、意見交換すべきだ」という考え方と対立するものではなく、同じ民主的行為に属するものです。詳細まで説明しますと、私は多数決とは最善ではないがそれ以外の手段があり得ない時に採択すべきものだと定義しています。「数の暴力」や「衆愚性」が非難されるように、話し合いによって避けられるなら避けるべきものだと思っています(全員の意見が一致する事はどんな場においても難しいことですが)。しかし、多層化されたマルチバース社会なら、下位の(自由に出入りができる)ユニバース内で強引な多数決を採る必要性は軽減されるわけですから、私の理想に近づきます。もちろん階層がマルチバースへと上がるにつれ、多数決も全体主義的な統制も必要となりますが、これはまさしく私が以前「個と普遍の軋轢も軽減されるでしょう」と説明したことと同様の内容になります。

一方永井さんの主張される、究極目的は生命維持であり必然的なものだから恣意的に選択出来ない、という法則は、話し合いからも、多数決からも、民主主義からも最も遠いところにあるのではないですか。

永井俊哉 さんが書きました:

人の心は、情報システムそのものであり、情報システムから離れてどこかに存在するということはありません。情報システムが矛盾を抱えることは事実としてありますが、矛盾律は、規範であり、事実として成り立つ法則ではないことに注意してください。矛盾が発生すると、情報システムのエントロピーが増大するので、このエントロピーを縮減しないと、情報システムが情報システムとして存続できなくなります。だから、情報システムは、矛盾を回避しなければならないのです。

矛盾の肯定は、情報システムの自殺行為です。矛盾を肯定すると、「人の心は『論理の問題』の外にある」と言っても、それは「人の心は『論理の問題』の外にない」をも意味し、「自由意志にプライオリティーがある」という主張は、「自由意志にプライオリティーがない」という主張にもなります。矛盾律を守らないと宣言したとたん、あなたが何を言おうとも、あなたはただ口をパクパクさせて、空気を振動させているだけで、何も言っていないことになります。

そうですね。ですから私は「他人に「矛盾していますよ」「こうすれば矛盾は解消されますよ」と進言すること」を善しと肯定しているのです。しかし「人の心が情報システム」であるのは、その人の心の中だけでの話であり、その心自体は、例えば論理学などの学問のシステムからは離れて存在しています。よって「好きだけど嫌い」とか「自分でも自分の気持ちが分からない」などという、永井さんに言わせれば『ただ口をパクパクさせて、空気を振動させているだけで、何も言っていない』というような心境にも人は至る訳です。そしてそんな矛盾したり、二律背反したり、アンビバレントであったりする人の気持ちは多種多様ですから、「好きだけど嫌い」などのような感情であれば私はその矛盾を無理に解消する事なく、その両義的な気持ちを温存するように進言することもあるでしょうし、本人を苦しめるような状況であれば、できるかぎりその解決の糸口を見つけられるよう尽力するだろうというだけです。『情報システムは、矛盾を回避しなければならない』という信念を、矛盾を抱える人に押し付けたりはしません。

話はかわりますが、もちろん私がこのような学術議論を旨とする場で、無矛盾律を無視した発言をしているとすれば、それは皆さんにとって迷惑以外の何ものでもありませんから、ご指摘ください。

永井俊哉 さんが書きました:

ここを読むと、こうもりさんは新興宗教(カルト)や疑似科学(オカルト)を価値的には否定しつつも、第三次パラダイムシフトをそうしたものが跳梁跋扈しやすくなる時代の到来と予測していることが窺えます。「絶対的な価値を与えてはくれない科学や合理性に失望し、超自然的な存在に解を求めようとする人の心が、第三次パラダイムを希求する」という例の件からもそう推測できます。こうもりさんは、「第三次パラダイム」に対する価値判断を留保していますが、以前述べたように、それでは無責任です。未来の社会のあり方を語る以上は、どうあるべきかにまで踏み込んで語るべきでしょう。

『価値判断を保留』しているのではなく、事実と価値を区別して論述しているだけです。『以前述べたように、それでは無責任です。』というご指摘への解答は、その当時即座に『「社会がどうなるのか」という「真偽」によって予測出来る事実と、自分の恣意が絡む「社会がどうあるべきか」という「善悪」の価値を、慎重に切り離さなければなりません。それこそが、責任ある言論人に求められる態度でしょう。』とお答えしたように、既に差し上げております。

そして何度も説明してきたことと重複するだけですが、これだけ貴重なお時間を割いてお付き合い頂いている永井さんのご要望ですので、私の立場を今一度整理しておきます。

「社会がどうなるのか」という予測

  1. マルチバース社会の方向に進むだろうし、その兆候もあちこちに散見される。
  2. プレ近代に戻るユニバースも、永井さんの支持する情報化社会としてのユニバースも、またその他のユニバースも、混在できるようになる。
  3. 第二次パラダイムの科学至上主義への反動から、新興宗教や疑似科学も今以上に隆盛を極めるだろう。

「社会がどうあるべきか」という私の価値判断

  1. 「個と普遍の軋轢」が軽減されるという点からは、マルチバースを歓迎できる。
  2. 各ユニバースの淘汰が起こることには、危惧を感じている。
  3. 悲劇的な淘汰が起こらないように、それぞれが判断する「善・悪」の価値は、大いに語り合い、意見交換すべきである。
  4. しかし、他とコミュニケーションを取りたがらない人もいるだろう。そんなユニバースに籠ろうとする個人に無理強いをするべきではない。

全てを書き尽くした訳ではありませんが、永井さんのご指摘に必要となる説明は以上になるかと思います(結局すべてがこれまで述べてきたことです。保留はしておりませんでした)。ここでも私がオカルトを肯定しているのか、否定しているのかを明記しなくても、私が考える事実と価値の説明は無矛盾に成立していると思います。

ただあまりにも永井さんが、私の新興宗教や疑似科学やオカルトに対する価値観に拘っていられるようなので、そちらも説明しておきます。

  1. 私は全ての宗教を否定しているわけではありません。
  2. それどころか「時間というフィルターに濾しとられた」という科学以上の「真理」を有するものだと評価しています。
  3. 興宗教についても、新興であるというだけで全てを否定するつもりはありません。
  4. 疑似科学にも、プロトサイエンスとの境界が曖昧なものもあり、全否定はいたしません。
  5. ただし両者の中には、大金を巻き上げたり、通常医療を否定したり、信奉者の社会的生活に大きな支障を来すものもあるので、それについては否定的です。
  6. しかし強制的に取り締まることよりも、話し合い、語りかけによる解決を望みます。
  7. 彼らが犯罪的な行為に及んでいるのであれば、それは法に基づいて裁かれる必要があると考えます。
  8. オカルトについては、以前述べた通りです(疑似科学とオカルトの区分も私の中では明確ではありませんが)。

永井俊哉 さんが書きました:

こうもり さんが書きました:

結局『こうもりさんにはオカルト趣味があるのでしょうか。』という私の人格に関するご質問は、今回の議論に何も寄与していないように思えるのですが、どうなのでしょう?

今回の議論を振り返ってみると、こうもりさんがオカルトを肯定しているかどうかということを確認したことは、矛盾の有無を問うた以上に重要な意味を持っていたと思われます。

永井さんは、私が『オカルトを肯定しているかどうか』という質問をされた訳ではありませんよ。「肯定しているかどうか」は私の人格に関する質問ではなく、私の価値観に関する質問でしょう。それならばまだ問題はないのです。例えば最初の質問が、

  • 「こうもりさんはユニバースという用語をオカルト的な意味でしようしているのですか」
  • 「こうもりさんは、オカルトを肯定しているのですか。否定しているのですか」

という質問だったのでしたら、私は「今回の議論とはまったく関係ない私の人格とその評価に関する指摘を記述している」などと非難はいたしません。そしてくれぐれも、その「指摘を記述する行為」を、私は「人格攻撃」だとは判断さえしていませんから、ご理解のほどお願い致します。そしてそもそも、永井さんがされたのは、

『こうもりさんにはオカルト趣味があるのでしょうか。』

というご質問ですよ。あまり適切な例ではないかもしれませんが、例えばそれは下記の2つの質問と全く同じ、似ているようでいて、大きく意味内容が異なる質問になるのです。

1.「こうもりさんは女装趣味を肯定しているのですか、否定しているのですか」(個人の価値判断に関する質問)
2.「こうもりさんには女装趣味があるのでしょうか」(個人の人格に関する質問)

私は女装趣味についてはまったく肯定的ですが、自分に女装をする趣味はございません。

維持するべき生命とは何か
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2014年3月30日(日) 11:34.

こうもり さんが書きました:

私が「自由意志の方がプライオリティーを持つ」と言っているのは、一個の人間内において、「生命維持のプログラム」による決定より、「自由意志」による決定の方が上位に位置しているという意味です。おそらく我々の身体にプログラムされた生命維持機能には、自律神経上で我々の意志とは関係なく働くものもあるでしょうし、我々の意志の中に「生きたい」という欲求の形でプログラムされているものもあるのでしょう。しかし自由意志は時にそれに反して「自死」を選ぶことがあります。この事実が、一個の人間内において「自由意志」が「生命維持プログラム」より優先して機能している証左だと私は考えます。永井さんのおっしゃる、究極目的は生命維持であり必然的なものだから恣意的に選択出来ない、とする説では、自殺をする個体が存在することを説明しきれないと思います。

私がその維持を究極目的としている「生命」とは、個人の生命のことではありません。種全体、さらには、生命全体です。だから、そういう意味での「生命維持」よりも「自由意志」にプライオリティーがあるなら、「殺人の自由を認めろ」とか「核兵器による先制攻撃の自由を認めろ」とかいった主張が正当化されることになるのです。また、自殺する個人がいることも私の説に対する反証にはなりません。少数の個人が自死を選んだところで、生命全体の存続が危機に瀕することはないからです。

こうもり さんが書きました:

永井さんの主張される、究極目的は生命維持であり必然的なものだから恣意的に選択出来ない、という法則は、話し合いからも、多数決からも、民主主義からも最も遠いところにあるのではないですか。

相変わらず、究極目的を選ぶ自由と手段を選ぶ自由を混同していますね。民主主義社会において私たちが話し合いや多数決で決める議題は、究極目的を実現するためにどのような手段を講じるかであって、何を究極目的とするかではないのです。国連に行って、「人類を滅亡させるために全面核戦争をしよう」という提案を加盟諸国にしても、門前払いとなって、議題として取り上げられることすらないでしょう。究極目的は、あまりにも自明だから、議題になることすらないのです。

こうもり さんが書きました:

矛盾したり、二律背反したり、アンビバレントであったりする人の気持ちは多種多様ですから、「好きだけど嫌い」などのような感情であれば私はその矛盾を無理に解消する事なく、その両義的な気持ちを温存するように進言することもあるでしょうし、本人を苦しめるような状況であれば、できるかぎりその解決の糸口を見つけられるよう尽力するだろうというだけです。

解決の糸口は矛盾の解消にあります。例えば、精神分析学では、心の病の源泉を表層意識と深層意識の矛盾に見出し、患者に深層の欲望を自覚させることで、病を治そうとします。

こうもり さんが書きました:

永井さんは、私が『オカルトを肯定しているかどうか』という質問をされた訳ではありませんよ。「肯定しているかどうか」は私の人格に関する質問ではなく、私の価値観に関する質問でしょう。それならばまだ問題はないのです。例えば最初の質問が、「こうもりさんはユニバースという用語をオカルト的な意味でしようしているのですか」「こうもりさんは、オカルトを肯定しているのですか。否定しているのですか」という質問だったのでしたら、私は「今回の議論とはまったく関係ない私の人格とその評価に関する指摘を記述している」などと非難はいたしません。

もちろん、「オカルトを肯定しているのですか」という質問でもよいのですが、それで「はい」という答えをもらっても、「オカルトは嫌いだけれども、オカルト信者を迫害するつもりはない」という程度の肯定なのか、それともそれ以上に肯定しているのかがわかりません。だから、どのみち「オカルト趣味があるのですか」といった質問をせざるを得なかったでしょう。

「こうもりさんにはオカルト趣味があるのでしょうか」と聞いた結果、次のような回答を得ました。

こうもり さんが書きました:

ここまで来て種明かしするのもなんですが、私はオカルトは好きです。たった今も、タイムリーにテレビで放送していたUFO、UMA、超能力についての2時間特番を最初から最後まで、この文を打ちながら小学一年の娘と一緒に観てしまいました。しかし、そういった超常現象を信じてはおりません。娘は怖がって私に抱きついてきて邪魔でしたが、そういう私が信じてもいない内容の番組を敢えて見せることも大切だと考えておりますし、自分も楽しんで観てしまいました。そんな私ですから『こうもりさんにはオカルト趣味があるのでしょうか。』と問われても困ってしまいます。逆に問いたいくらいです。私にはオカルト趣味があるのでしょうか。

オカルトは好きだけれども、信じていないというのであれば、「オカルト趣味はあるが、オカルト信者ではない」と判断できます。

こうもり さんが書きました:

「時間というフィルターに濾しとられた」という科学以上の「真理」を有するものだと評価しています。

これはどういう意味ですか。宗教的真理は時間を超越しているがゆえに科学的真理よりも優れているとでも言いたいのですか。

確かにそれは全体主義ではありませんね。
投稿者:こうもり.投稿日時:2014年3月31日(月) 00:14.

永井俊哉 さんが書きました:

私がその維持を究極目的としている「生命」とは、個人の生命のことではありません。種全体、さらには、生命全体です。

そうだったんですか。てっきり「個人の生命」の話だと思っていました。「種、生命全体の生命」だったんですね。

この議論が始まって、最初の頃に紹介されたのが『自殺はなぜ悪なのか』『安楽死について』という、「種、生命全体の生命」についても少し触れられていますが、ほぼ全編が「個人の生命」について論じているリンク先でしたので、私は最初から今に至るまでずっと「個人の生命」を念頭に話をしておりました。

永井俊哉 さんが書きました:

もしもこうもりさんにとって、生きることを選ぶか、あるいは死ぬことを選ぶかが恣意にすぎないのなら、なぜこれまで生きることを選び続けたのですか。

途中でなされたこの質問も、私の「個人の生命」が恣意で決まらないという主張でしたからね。「種、生命全体の生命」を指していたとは思いもよりませんでした。

永井俊哉 さんが書きました:

目的が存在しないというケースは、「目的の設定が恣意的である」場合の一つとみなすことができます。つまり、何を目的としてもよいということは、ゼロの目的をも選ぶことができるということです。もしも、目的の設定を恣意的にすることができるなら、絶えず実現可能な目的(ゼロの目的も含む)を選び続けることで、死ぬまで全く悩まない人生を送ることができます。しかし、ごく一部の狂人を除けば、「どうなろうが、どうでもよい」という人生を送ることはありません。たいていの人は、悩みながら、どう生きればよいのかを考えるものなのです。

後半で頂いたこの説明の時には既に「究極目的」という言葉が登場していましたが、やはり「種、生命全体の生命」よりも「個人の生命」について書かれていますし、

永井俊哉 さんが書きました:

人の心は、情報システムそのものであり、情報システムから離れてどこかに存在するということはありません。《中略》矛盾律を守らないと宣言したとたん、あなたが何を言おうとも、あなたはただ口をパクパクさせて、空気を振動させているだけで、何も言っていないことになります。

前回冒頭でも、個人の心について語られていましたので、私はてっきり「個人の生命」について論じられていたのだと思っていました。

永井俊哉 さんが書きました:

相変わらず、究極目的を選ぶ自由と手段を選ぶ自由を混同していますね。民主主義社会において私たちが話し合いや多数決で決める議題は、究極目的を実現するためにどのような手段を講じるかであって、何を究極目的とするかではないのです。国連に行って、「人類を滅亡させるために全面核戦争をしよう」という提案を加盟諸国にしても、門前払いとなって、議題として取り上げられることすらないでしょう。究極目的は、あまりにも自明だから、議題になることすらないのです。

おかげで、この疑問が解消されました。私が混同していたのは、「究極目的を選ぶ自由と手段を選ぶ自由」ではありませんね。おそらく「個人の生命」と「種、生命全体の生命」を取り違えていたのです。永井さんが「種、生命全体の維持という究極目的」をおっしゃっているのに、私は「個人の生命の維持という究極目的」を思い描いていたのです。そして、民主主義社会や国連で、個人の「自由意志」がプライオリティーを持たないのもあたりまえのことです。私は、それを全体主義だとは言いません。社会はそれだけでシステムですし、私の想定する階層的なマルチバース社会でも、国家や国連というのは一番上層に位置する「普遍」ですから。しかし逆に、国連で全世界の「禁煙」を訴えることは難しいでしょうね。「銃の所持」や「ソフトドラッグ」の自由まで認めている国があるぐらいですから。他人に危害を加えない限り個人の自由を最大限認めようとする人々の耳には、永井さんの考え方は全体主義的に聞こえるでしょうね。

永井俊哉 さんが書きました:

もちろん、「オカルトを肯定しているのですか」という質問でもよいのですが、それで「はい」という答えをもらっても、「オカルトは嫌いだけれども、オカルト信者を迫害するつもりはない」という程度の肯定なのか、それともそれ以上に肯定しているのかがわかりません。だから、どのみち「オカルト趣味があるのですか」といった質問をせざるを得なかったでしょう。

どの程度の肯定でも、今回の議論には関係ないはずです。私はずっと「多様な価値観を持つ人々が混在するマルチバース社会」の予測を語り続けてきたのですから、私が「はい」と答えても「いいえ」と答えても、私の議論に何の矛盾も生まれないでしょう。議論の性格上相手の価値観を問う必要性がある場合もありますが、今回の場合はそれにすらあたらない、ということです。ましてや、相手の人格に関わる「趣味」を問うことは、どんな論文についても必要のないことでしょう。その程度のことで「オカルト趣味があるかどうか」をお訊きになるのは、やはり軽率ですよ。論者の身の上とその主張内容を切り離して評価できない人もたくさんいるのですから、意図的な印象操作だと受け取られても仕方がなくなってしまうことは、以前も警告した通りです。

永井俊哉 さんが書きました:

オカルトは好きだけれども、信じていないというのであれば、「オカルト趣味はあるが、オカルト信者ではない」と判断できます。

その結果、結局そう判断できたことで、何か今回の議論に役に立つことはあったのですか。そして厳密に訂正しておきますが、私はオカルトをエンターテイメントとしてテレビで観たり、記事を読むのは好きですが、「オカルト趣味がある」という言葉から連想されるような、何かの儀式をしていたりすることはありません(こんな説明も議論にはまったく必要のないことですが)。

永井俊哉 さんが書きました:

こうもり さんが書きました:

「時間というフィルターに濾しとられた」という科学以上の「真理」を有するものだと評価しています。

これはどういう意味ですか。宗教的真理は時間を超越しているがゆえに科学的真理よりも優れているとでも言いたいのですか。

お訊きの内容は、以前一度ご説明したことがありますので、該当する箇所を再掲させて頂きます。それでもご理解頂けないようでしたら、またご質問ください。

こうもり さんが書きました:

第一次パラダイム——人口の8割以上が第一次産業に従事し、貨幣は存在したものの貨幣経済は浸透していなかった時代。封建的な価値観と宗教的な価値観に基づいて生きることを余儀なくされ、個人の自由度は低かった(あるいは人権を蔑ろにされたりもしていた)。しかしその封建的価値観、宗教的価値観における伝統や習慣、儀式や戒律などには、科学の合理性では到達し得ない「真理」を含有していたのではないかと私は考える。それは「有史以前からの長い時間というフィルターに濾しとられた自然淘汰」とでもいうべきもので、人類はその生き方や家族・社会の形成の仕方、自然との付き合い方などを、合理性に基づく判断ではなく、各部族の全滅をも含む原始の頃からのトライ&エラーで獲得してきた。その競争に残ったドミナントな文化、宗教には、その民族や風土に最適化された「真理」を、ある程度は提供していたのではないかと思われる。

《中略》

私個人としては、以上のようなパラダイム観を抱えながら、出来るだけ科学や哲学の学識を参照し、合理的な判断の元に自らの行動規範を規定していきたいと心掛けています。しかし、ここまで再三説明した通り、それらの合理的な判断では答の出ない問題も多々あります。特に複雑な要素が多数絡む生き方の問題を考える際には、封建時代以前より人類が選択して来た道を尊重することにしています。結婚や育児、人付き合い、文化や伝統に関わることなどがそれにあたります。合理性により、未婚や少子化問題に解決の糸口を見つけようとする理論や政策には違和感をおぼえますし、現代人の傲慢さも感じます。

平等論の動機
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2014年3月31日(月) 23:58.

こうもり さんが書きました:

この議論が始まって、最初の頃に紹介されたのが『自殺はなぜ悪なのか』『安楽死について』という、「種、生命全体の生命」についても少し触れられていますが、ほぼ全編が「個人の生命」について論じているリンク先でしたので、私は最初から今に至るまでずっと「個人の生命」を念頭に話をしておりました。

「種全体」あるいは「生命全体」と言っても、それらが個体の生命を離れてどこかに存在するわけではなく、具体的な話をしようとするなら、個人の生命の話にならざるを得ません。

こうもり さんが書きました:

私が混同していたのは、「究極目的を選ぶ自由と手段を選ぶ自由」ではありませんね。おそらく「個人の生命」と「種、生命全体の生命」を取り違えていたのです。

「個人の生命」を守ることと「種、生命全体の生命」を守ることの間には、手段と目的の関係があるのだから、同じことです。

こうもり さんが書きました:

国連で全世界の「禁煙」を訴えることは難しいでしょうね。「銃の所持」や「ソフトドラッグ」の自由まで認めている国があるぐらいですから。他人に危害を加えない限り個人の自由を最大限認めようとする人々の耳には、永井さんの考え方は全体主義的に聞こえるでしょうね。

究極目的が生命全体の維持だからといって、それが全体主義を帰結すことにはなりません。なぜなら、個人主義と自由主義を採用した英米が、第二次世界大戦で滅私奉公型の全体主義を採用した日本やドイツに勝利し、冷戦終結で社会主義諸国に勝利したといった事例にみられるとおり、社会は、全体主義と統制主義よりも、個人主義と自由主義を採用した方が、かえって生存力を高めることができるからです。私たちが普段全体の利益のことなど考えずに、自分の利益のことしか考えていないのにも理由があるということです。

「禁煙」の話を持ち出したのは、私が提案した「喫煙禁止年齢漸次引き上げ策」を意識してのことですか。リンク先で、私は「同意できる国々の間で国際的に統一して設定することが望ましい」と書きましたが、世界のすべての国が同じ政策を採用するべきだとは書いていないし、またそう思っているわけでもありません。どんな政策に関しても、リスクヘッジのため、あるいは移民に選択の自由を与えるため、ある程度多様性が必要だと思います。喫煙禁止年齢漸次引き上げ策の場合、採用した国とそうでない国が存在した方が、その効果を比較検証する上で好都合というメリットもあります。

こうもり さんが書きました:

私はずっと「多様な価値観を持つ人々が混在するマルチバース社会」の予測を語り続けてきたのですから、私が「はい」と答えても「いいえ」と答えても、私の議論に何の矛盾も生まれないでしょう。

変化適応のためには多様性を容認しなければならないが、環境適応のためには、多様性を平等に扱うことなく、最も有望な選択肢に最も多くの資源を投資しなければならないというのが生命システムの生存戦略の基本原理です。ところがこうもりさんには後者の視点がありません。

2014年3月28日(金) 01:19 に こうもり さんが書きました:

私にとっては『生命の維持』よりも、不確定な「自由意志」の方がプライオリティーを持ち得ますので、オカルトやフィクションをその有用性で判断しようとは思いません。どれも不確定な心が生み出した産物ですので、存在するだけでその価値はあるのです。もちろん適応力を高めるためにも多様性は大切ですが、多様性は多様であるだけで価値があります。それは不確定性により生まれる自由意志、人の心の在り方がまた多様だからです。永井さんが『この機能という観点から、価値が』ないと判断されるような文学作品も、不確定性により多様になった心の持ち主にとっては、その心の拠り所となったりするものです。

こうもりさんは、オカルトやフィクションには、存在するだけで価値があるというのですが、実際にはオカルトやフィクションの価値は平等ではありません。ベストセラーになる小説もあれば、全く売れない小説もあります。高視聴率を記録するオカルト番組もあれば、企画段階でボツになるものもあります。実際に存在する多様性とは、このように価値的な格差を伴った多様性なのです。

だから、私が提案したマルチバースでも、決して各ユニバースが平等ということではないのです。そもそも元祖マルチバース論である量子力学の多世界解釈においては、各世界の分岐は同じ確率では起きず、異なる実在性を持ちながら併存するのです。私たちがメタファーとして使っている転用された意味でのマルチバースも、平等ではないという点では同じです。ところが、こうもりさんは各ユニバース間に価値的な格差を設けようとはしません。

2014年3月11日(火) 21:03 に こうもり さんが書きました:

念のため、誤解を避けるための弁明となりますが、私は自然科学を否定している訳でも、人文科学を否定している訳でもありません。また、科学や文学などの学問のうち、どちらが崇高だとか、優れているとかの優劣をつけている訳でもありません。それぞれの学問領域の守備範囲を、私なりに解説したまでです。私個人としては、以上のようなパラダイム観を抱えながら、出来るだけ科学や哲学の学識を参照し、合理的な判断の元に自らの行動規範を規定していきたいと心掛けています。しかし、ここまで再三説明した通り、それらの合理的な判断では答の出ない問題も多々あります。特に複雑な要素が多数絡む生き方の問題を考える際には、封建時代以前より人類が選択して来た道を尊重することにしています。

各ユニバースを平等に扱おうとするこうもりさんの態度は公平中立であるように見えます。そして、自身のオカルト趣味が今回の議論とは無関係であることを強調するのも、自分のマルチバース論が、自分の価値観に影響されない公平中立性を持つことを示すためのなのでしょう。しかし、一見すると公平中立な平等論は、その見かけの平等性ゆえに不平等な価値的偏向に動機付けられているということができます。

というのも、現在の私たちの大部分は、宗教やオカルトといった「封建時代以前より人類が選択して来た道」よりも近代以降に登場した科学の方を信用しており、両者の評価は平等ではないからです。平等ではないのに、平等に扱えというなら、それは事実上、科学の評価を現状よりも下げ、宗教やオカルトの評価を現状よりも上げることになるのです。だから、こうもりさんは、公平中立な態度をとっているように見せかけつつも、実際には、科学を貶め、宗教やオカルトを依怙贔屓していると解釈できます。

こうもり さんが書きました:

議論の性格上相手の価値観を問う必要性がある場合もありますが、今回の場合はそれにすらあたらない、ということです。

こうもりさんは、今回の議論と無関係と思っているのかもしれませんが、私にとっては重要な判断材料なので、もう少しこうもりさんの個人嗜好について質問させてください。こうもりさんは、中沢新一のポストモダン論についてどう思いますか。オカルトと同じで、「好きだけれども信じていない」というスタンスでしょうか。

こうもり さんが書きました:

私はオカルトをエンターテイメントとしてテレビで観たり、記事を読むのは好きですが、「オカルト趣味がある」という言葉から連想されるような、何かの儀式をしていたりすることはありません(こんな説明も議論にはまったく必要のないことですが)。

オカルト信者は、オカルト儀式の効果を信じているから、真面目に儀式をするでしょう。でもたんなるオカルト趣味の人なら、儀式の効果を信じていないのだから、そういう儀式はしないか、あるいは冗談で「オカルトごっこ」をする程度でしょう。

こうもり さんが書きました:

封建的価値観、宗教的価値観における伝統や習慣、儀式や戒律などには、科学の合理性では到達し得ない「真理」を含有していたのではないかと私は考える。それは「有史以前からの長い時間というフィルターに濾しとられた自然淘汰」とでもいうべきもので、人類はその生き方や家族・社会の形成の仕方、自然との付き合い方などを、合理性に基づく判断ではなく、各部族の全滅をも含む原始の頃からのトライ&エラーで獲得してきた。その競争に残ったドミナントな文化、宗教には、その民族や風土に最適化された「真理」を、ある程度は提供していたのではないかと思われる。

宗教やオカルトが没落し、科学が台頭してきた以上、淘汰論的には前者よりも後者の方が価値があるということになりませんか。それとも、人類が繁栄した期間よりも恐竜が繁栄した期間の方が長いから、人類よりも恐竜の方が価値があるというようなことが言いたいのですか。

平等ではないのですか?
投稿者:こうもり.投稿日時:2014年4月01日(火) 19:27.

議論がだいぶ混線してきたようなので、私の立場を箇条書きに整理します。

  1. 科学や論理学の合理性により証明される「真偽」から、人の心に強制できる「善悪」は導けない。
  2. 個人においては「生命維持のプログラム」よりも「自由意志」の方にプライオリティーがある。
  3. 「種、生命全体の維持という目的」も必然的なものではなく、恣意、自由意志によって選択し得る目的のひとつに過ぎない。
  4. 個人の「自由意志」よりは、当然多数の「自由意志」の方がプライオリティーを持つ(多数決)。

1については永井さんから、「生命維持という究極目的は必然であるから、善悪も導ける」という主旨の反論を頂きました。対して私は「生命維持のプログラムに反して自殺する個体が存在する」ことを例に2という反証を行いました。それに対しては、

永井俊哉 さんが書きました:

また、自殺する個人がいることも私の説に対する反証にはなりません。少数の個人が自死を選んだところで、生命全体の存続が危機に瀕することはないからです。

という、反論を頂いたのですが、この反論は2の命題自体の反証にはなり得ませんよね。「自死を選ぶ個体」がいたところで、「種、生命全体の維持という究極目的」に影響は与えない、というだけの話ですよね。一方で、

永井俊哉 さんが書きました:

「個人の生命」を守ることと「種、生命全体の生命」を守ることの間には、手段と目的の関係があるのだから、同じことです。

だとおっしゃっているいうことは、逆に2の命題が成立すれば、3の命題も成立するということになりますね。できれば、2への反証を頂きたいところです。

一方ここでは、3のための反論を試みます。私は国会や国連において、人類破滅的な議案が採択されない理由は、「種、生命全体の維持が選択の余地のない必然的な究極目的」だからではなく、4の理由によるものだと考えます。国も国連もシステムですから、システムの維持という目的は究極目的に近い高みに設定されているはずです。が、それでも絶対的な目的ではありません。国連を離脱したり、解散したりする選択権は、依然として多数の「自由意志」に任されているからです。『究極目的は、あまりにも自明だから、議題になることすらないのです。』という法則によるものではないと思います。

その根拠は、過去に実際にシステム全体の死に近い大規模な戦争を繰り広げた国家があったからです。世界全体を危機に陥れるような大戦も繰り返されましたし、人類はスイッチひとつで地球を何回も破滅させられるほどの核も保有していると言われたりもしていました。これらの事実は、「種、生命全体の維持という究極目的」が「必然」でも「自明の理」でもなく、我々の恣意や「自由意志」に任されている証左だと私は考えます。一人の権力者の指先一本(個人の自由意志)によってミサイルのボタンが押されてしまう危険性も、民主的手段を経た後に全面戦争が選択される可能性(多数の自由意志)も、依然として残っています。「種、生命全体の維持」≒「平和」とは、人類全体と歴史の不断の努力と民主的な話し合いによって維持されているのだと私は考えます。逆に平和を、話し合うまでもない「自明の理」だと結論づけることによって、大切な何かが抜け落ちてしまうような危ういものだとも、常に憂慮しております。平和は必然ではなく、多数の「自由意志」たちが、それを重んじて達成しているからこそ尊いのだと思います。

それでは「多数の自由意志」がどうあるべきか。つまり以前避けられるなら避けるべきだとした「多数決」について、さらに別の私見を述べさせて頂きたいと思います。以前「通貨の権力誇示メディアとしての機能が衰退する代わりに、分割できる投票権としての機能が高まるだろうと予想できる」と表現したことの、詳細な説明となります。

例えば私は「英語の幼児教育」については反対の立場を取るのですが、現在の公教育においては、文科省によりその導入が決定すれば、公立小学校に通う私の娘もそれに従う他ありません。しかしそこに市場原理が働くとなれば、幼児教育を施したい親はそういう学校に、施したくない親は別の学校に、それぞれを通わせることが出来るのです。また、私が年間支払う税金のうち、数十万が文化教育振興費に充てられていると思うのですが、私自身はその用途を決定する術を持ちません。代表制議会主義の日本においては、「原発の推進・廃止」「憲法の改正・保持」「英語の早期教育の是・非」などについて、複数のマニフェストを同時に掲げる候補者に一票を投じるしかありません。自分の信条と完全に一致する候補者を見つけることは、ほぼ不可能で、投票も分割できません。しかし各分野で民営化が進めば進むほど、私は自分の理想とする政策(サービス)に、自分の票(お金)を分割して投じることが出来るようになるのです。そして、同様の改善が私の予測するマルチバース社会においても実現できるようになるのです。

永井俊哉 さんが書きました:

というのも、現在の私たちの大部分は、宗教やオカルトといった「封建時代以前より人類が選択して来た道」よりも近代以降に登場した科学の方を信用しており、両者の評価は平等ではないからです。平等ではないのに、平等に扱えというなら、それは事実上、科学の評価を現状よりも下げ、宗教やオカルトの評価を現状よりも上げることになるのです。だから、こうもりさんは、公平中立な態度をとっているように見せかけつつも、実際には、科学を貶め、宗教やオカルトを依怙贔屓していると解釈できます。

各個人が持つ価値観や信仰や思想は、平等に扱われるべきではないのですか。強い言い方をすれば、差別されるべきではないと私は考えます。それは如何なる科学の合理性や、イデオロギーをもってしても差別されるべきではありません。「種、生命全体の維持という究極目的」に対する有用性から、科学を高く評価し、宗教を低く評価することに私が反対しているのも、その理由からです。評価は各個人の「自由意志」に任せるべきです。そして先ほどの市場原理の例と同じように、「科学」を支持する「自由意志」が多ければそのユニバースは拡大・繁栄し多くのリソースが集まる、「宗教・オカルト」を支持する「自由意志」が少なければそれに見合った規模のユニバースになりリソースも限定される、…という方式で平等に評価されるべきだと思います。結果は不平等でも良いのです。永井さんの出されたベストセラー小説や高視聴率番組に関する例にも同じことが言えます。またマルチバース社会では、ベン図が重なるように複数のユニバースにまたがって所属することが可能なのですから、先ほどの例と同様に、自分の持つリソース(資金・時間・労働・物資など)を分割して、各ユニバースに投票できるのです。

永井俊哉 さんが書きました:

変化適応のためには多様性を容認しなければならないが、環境適応のためには、多様性を平等に扱うことなく、最も有望な選択肢に最も多くの資源を投資しなければならないというのが生命システムの生存戦略の基本原理です。ところがこうもりさんには後者の視点がありません。

上記の市場原理と同様の法則により、永井さんの希望される環境適応『最も有望な選択肢に最も多くの資源を投資しなければならない』の条件も満たすことができます。ただし、何が有望かを決定するのは「科学的理論」ではなく、あくまでも各個人の「自由意志」です。

永井俊哉 さんが書きました:

宗教やオカルトが没落し、科学が台頭してきた以上、淘汰論的には前者よりも後者の方が価値があるということになりませんか。それとも、人類が繁栄した期間よりも恐竜が繁栄した期間の方が長いから、人類よりも恐竜の方が価値があるというようなことが言いたいのですか。

繁栄した期間の長さで判断しているのではないので、恐竜は関係ありません。「時間というフィルター」というのはそういう意味ではありません。自然淘汰を行うフィルターという意味です。

私がすでに「それらの合理的な判断では答の出ない問題も多々あります。特に複雑な要素が多数絡む生き方の問題を考える際には、封建時代以前より人類が選択して来た道を尊重することにしています。」と書いたように、まず自然科学や人文科学が導き出している「事実」は万能ではないことをご理解ください。特に気象や地質や生命や脳など、「複雑系」と呼ばれる分野はまだまだ未開の領域を多く抱えているといって良いでしょう。さらに最たる複雑系である個人の「自由意志」、そしてその「自由意志」と「自由意志」がぶつかる人間関係となると、科学では説明しきれない部分が多過ぎます。「どう生きるか」を考えるにあたって肝心なところで、科学は未解決の問題にぶつかるのです。卑近な例で言えば、恋の方程式は数学や科学でも解き明かせないということです。

そして、昨今の未婚化や離婚の増加などを鑑みれば、自由恋愛が普及するようになって、事態はますます深刻化の一途を辿っています。なぜ、多くの文化で婚姻の制度があるのか。なぜ一夫一妻制を採択している文化が多いのか。さまざまな説が提唱されてはいますが、科学はまだそれを解き明かしてはいません。しかし人類は類人猿として登場した数万年前から、トライ&エラー、つまり部族の全滅をも含む自然淘汰を経て、婚姻制度を獲得してきたのだと思います。そしてその制度を教典や戒律として明文化したものが宗教や伝統だと考えます。ほんの数十年生きただけの、しかも極めて限られた知識しか持たない私個人が、自らの得た科学的合理性や論理的整合性に基づいて、結婚すべきか否かを判断するのは傲慢だと若き日の私は考えたのです。ましてや、結婚を損得勘定から「終わコン」だと決めつけたり、他の価値観を優先して否定するのはもっての他だと思ったのです。もちろんこれは私個人の価値観にすぎませんから、他のユニバースに住む人々に押し付けるつもりはありませんが、大いに意見交換すべきことだとも思います。人工的な法制度を施行することで、未婚化や少子化を解決しようとすることよりも、長い年月を経て人類がたどり着いた「真理」をもっと重んじるよう訴えたいところです。しかし「宗教や伝統」>「科学」と決めつけているのではありません。科学には科学の領域があり、一方で「生命への畏敬の念」「自然への畏怖」など、宗教や伝統が教えてくれる「真理」には、その根拠や理由は明らかではなくとも、従うべき価値があると私の「自由意志」は判断しているのです。

永井俊哉 さんが書きました:

こうもりさんは、今回の議論と無関係と思っているのかもしれませんが、私にとっては重要な判断材料なので、もう少しこうもりさんの個人嗜好について質問させてください。こうもりさんは、中沢新一のポストモダン論についてどう思いますか。オカルトと同じで、「好きだけれども信じていない」というスタンスでしょうか。

できれば、私の質問の方にも答えていただけませんか。「私がオカルト趣味を持っているのかどうか」が今回の議論で何の役に立つのかを教えていただけませんか。私の個人嗜好がなぜ『重要な判断材料』なのか、いまだに分かりません。分からないままに、今回の質問にもお答えしますが、中沢新一さんについて私はあまり興味がありません。よく本の解説や対談記事などでお名前を拝見するなぁ、というぐらいです。ただポストモダンやオカルト関係で言うならば、ドミナントな宗教よりも、密教などのマニアックな宗教に走りがちな人なんだろうなぁ、という印象は持っています。よく科学的知見でも、目新しくてマニアックなトピックに飛びつく人がいますが、私にはあまり興味がありません。今回のSTAP細胞のように、飛びついても、間違いだったりすることが多いからです。中沢さんも、オウムなんかに飛びつかなければ良かったのでしょうが、彼らのようなフロンティアスピリッツに溢れる冒険家が、人類にとって必要なこともまた確かなことだと思います。…こんな解答でよろしいでしょうか。何かのお役に立ちましたか?

前近代逆行型ポスト近代論
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2014年4月02日(水) 12:45.

こうもり さんが書きました:

科学や論理学の合理性により証明される「真偽」から、人の心に強制できる「善悪」は導けない。

例えば、憎んでいる相手に見立てた藁人形に釘を打ち込み、その結果、たまたま対象となった人が死んだとしても、現在の法律は、殺人罪を適用しません。しかし、相手の飲み物にヒ素を入れて、その人を殺せば、殺人罪になります。それは、ヒ素の致死作用が科学的に実証されているからです。相手の飲み物にヒ素を入れるという行為が、刑罰の服役が強制される悪であるのは、科学的知識に基づいているのです。それともそれは、藁人形に釘を打ち込む行為と同様に、人の心に強制できる善悪ではないというのですか。

もしもあなたの命題が「科学や論理学の合理性により証明される「真偽」から、人の心に絶対的に強制できる「善悪」は導けない」というものであるなら、その命題と「生命維持という究極目的は必然であるから、善悪も導ける」という命題は矛盾しません。なぜなら、価値を手段としての有用性と定義し、「真偽」から「善悪」を導くことが原理的にできるとしても、私たちは有限な存在者であるがゆえに、その「真偽」を完全には認識できないからです。つまり私たちの因果関係の認識が確実ではなく、間違っている可能性がある以上、手段としての最有用性にも絶対的な確実性はなく、それゆえ人の心に絶対的に強制できる善悪は導けないということになります。しかし、絶対的に確実な悪しか有罪にしないということを言っていると、有罪判決を出すことが不可能になってしまうので、私たちの社会は、どちらの選択を選んだ方が相対的に善になりそうなのかという蓋然性に基づいた認識で行為を決めています。

こうもり さんが書きました:

個人においては「生命維持のプログラム」よりも「自由意志」の方にプライオリティーがある

個人レベルでは、個人により、場合によりまちまちです。たとえ奴隷となってでも生き延びたいという人もいれば、“Liberty or Death”を標語に、自由を求める革命で命を落とす人もいます。後者の場合でも、人は死ぬために死んでいるのではなくて、生命体としての社会が、その生命を維持し、発展していく上で、自由が不可欠だから、いくらか犠牲者が出たとしても、革命は成し遂げられるべきだという思いからなされているのです。

こうもり さんが書きました:

私は国会や国連において、人類破滅的な議案が採択されない理由は、「種、生命全体の維持が選択の余地のない必然的な究極目的」だからではなく、4の理由によるものだと考えます。国も国連もシステムですから、システムの維持という目的は究極目的に近い高みに設定されているはずです。が、それでも絶対的な目的ではありません。国連を離脱したり、解散したりする選択権は、依然として多数の「自由意志」に任されているからです。『究極目的は、あまりにも自明だから、議題になることすらないのです。』という法則によるものではないと思います。

多数の自由意志が議題にも取り上げないのはなぜなのか、その理由を考えてください。それは選択の余地のない必然的な究極目的だからです。もしも究極目的の設定が恣意的なら、国連は60年以上の歴史があるにもかかわらず、一度も議題にすらならないというのは、確率論的に見てありえないことでしょう。

こうもり さんが書きました:

その根拠は、過去に実際にシステム全体の死に近い大規模な戦争を繰り広げた国家があったからです。世界全体を危機に陥れるような大戦も繰り返されましたし、人類はスイッチひとつで地球を何回も破滅させられるほどの核も保有していると言われたりもしていました。これらの事実は、「種、生命全体の維持という究極目的」が「必然」でも「自明の理」でもなく、我々の恣意や「自由意志」に任されている証左だと私は考えます。

戦争、あるいは一般化するなら、競争は、主観的には自分たちの生命体を維持するために行うのですが、このことは究極目的が生命全体の維持であるという仮説には反しません。なぜなら、生命体は、競争によってイノベーションを促進し、生存力を高めるからです。実際、戦争に勝利するという動機から科学技術が進歩したというのは、否定できない過去の事実なのです(もちろん、それらは戦争がなければ進歩しないということはないので、人類は戦争とは異なる形の競争、すなわち市場原理に基づく競争でイノベーションを促進するというのが今後の人類が目指すべき方向だと思います)。

核兵器というのも、そうしたイノベーションの成果で、核分裂エネルギーの実用化は、第二次世界大戦がなかったなら、もっと遅れていたことでしょう。米国大統領が、核兵器開発にゴーサインを出したのは、人類を滅亡させるためではなく、自国と同盟国の人々の生命を守るためなのだから、これまた私の仮説に対する反証にはなりません。北朝鮮のような「ならず者国家」ですら、人類を滅亡させるために核兵器の開発を行っていないのです。

こうもり さんが書きました:

一人の権力者の指先一本(個人の自由意志)によってミサイルのボタンが押されてしまう危険性も、民主的手段を経た後に全面戦争が選択される可能性(多数の自由意志)も、依然として残っています。

そういう可能性があるにもかかわらず、なぜその可能性が選ばれないのか、その理由を考えてください。なぜ核兵器が開発されてから、核兵器保有国同士が直接総力戦をすることを回避するようになったのか、その理由を考えてください。もしもこうもりさんが言うように究極目的の設定が恣意的なら、その可能性が全く選ばれないというのは、確率論的にありえないということになるでしょう。

こうもり さんが書きました:

「種、生命全体の維持」≒「平和」とは、人類全体と歴史の不断の努力と民主的な話し合いによって維持されているのだと私は考えます。逆に平和を、話し合うまでもない「自明の理」だと結論づけることによって、大切な何かが抜け落ちてしまうような危ういものだとも、常に憂慮しております。平和は必然ではなく、多数の「自由意志」たちが、それを重んじて達成しているからこそ尊いのだと思います。

「種、生命全体の維持」と「平和」はイコールではありません。中国や北朝鮮のような独裁国家が日本に攻めてきたとき、抵抗しなければ、「平和」を維持することができるし、市場原理に基づく競争を放棄すれば、「心の平和」も手に入るかもしれませんが、そうした平和は停滞以外の何物でもなく、イノベーションを圧殺し、社会を貧しくし、生命の生物的存在すら危うくする事態を帰結するでしょう。このような場合は、戦いが必要です。

こうもり さんが書きました:

各個人が持つ価値観や信仰や思想は、平等に扱われるべきではないのですか。強い言い方をすれば、差別されるべきではないと私は考えます。それは如何なる科学の合理性や、イデオロギーをもってしても差別されるべきではありません。「種、生命全体の維持という究極目的」に対する有用性から、科学を高く評価し、宗教を低く評価することに私が反対しているのも、その理由からです。評価は各個人の「自由意志」に任せるべきです。そして先ほどの市場原理の例と同じように、「科学」を支持する「自由意志」が多ければそのユニバースは拡大・繁栄し多くのリソースが集まる、「宗教・オカルト」を支持する「自由意志」が少なければそれに見合った規模のユニバースになりリソースも限定される、…という方式で平等に評価されるべきだと思います。結果は不平等でも良いのです。

つまり機会均等という意味での平等だけを認めて、結果の平等までは求めないというのですね。それなら、人々が宗教やオカルトよりも科学を信用するという結果の不平等をそのまま肯定するということになります。その場合、これまでの科学批判や「情報化時代のパラダイムシフト」論はどうなるのでしょうか。科学技術を批判する人々とか「宗教・オカルト」を支持するコミュニティとかいった傍流がメインストリームと併存するといったことはこれまでもあったことで、新しいことでも何でもありません。パラダイム・シフトという以上、現状が大きく変わらなければならないはずなのに、何が変わったのかはっきりしません。

こうもり さんが書きました:

何が有望かを決定するのは「科学的理論」ではなく、あくまでも各個人の「自由意志」です。

「科学的理論」と「自由意志」は矛盾しません。人々は、自由意思に基づいて、科学的理論を信用する選択肢を選んでいるのです。

こうもり さんが書きました:

自然科学や人文科学が導き出している「事実」は万能ではないことをご理解ください。特に気象や地質や生命や脳など、「複雑系」と呼ばれる分野はまだまだ未開の領域を多く抱えているといって良いでしょう。さらに最たる複雑系である個人の「自由意志」、そしてその「自由意志」と「自由意志」がぶつかる人間関係となると、科学では説明しきれない部分が多過ぎます。「どう生きるか」を考えるにあたって肝心なところで、科学は未解決の問題にぶつかるのです。卑近な例で言えば、恋の方程式は数学や科学でも解き明かせないということです。

現在の学問では説明のつかない事象があることは事実だが、その謎を解明しなければならないのは、学問的な合理性であって、それ以外ではありません。これが近代から続くポスト近代のメインストリームの考えであり、この点でパラダイム・シフトが起きることはないと思います。

こうもり さんが書きました:

「私がオカルト趣味を持っているのかどうか」が今回の議論で何の役に立つのかを教えていただけませんか。

こうもりさんの個人的嗜好を理解することで、「情報化時代のパラダイムシフト」論の隠れた動機が理解できました。こうもりさんのこれまでの発言を信じるなら、「人は物語、詩、夢のために生きている」と言うのですから、こうもりさんにとっての本命は宗教やオカルトではなくて、詩のようです。しかし、これらは非科学的なフィクションという共通項を持っているので、これらの隣接分野に対するシンパなのでしょう。

現在起きている情報革命で、非科学的なフィクションのプレゼンスが高まっているかと言えば、決してそうは言えません。詩が一番もてはやされていたのは前近代で、時代とともにディスクールの散文化が進んでいます。宗教やオカルトも同じで、一番栄えていたのは前近代で、時代とともに文化の世俗化が進んでいます。こうした「自然淘汰」の結果を受け入れず、こうもりさんが今回のようなパラダイムシフトの予測をしたのは、個人的な嗜好ゆえのことなのでしょう。つまり、実際には予測というよりも希望的観測であったということです。

こうもりさんにとって、自分の「情報化時代のパラダイムシフト」論がニューサイエンスや中沢新一流のポストモダン論と同じ分類になるのは不本意なことかと思いますが、私の分類では、前近代逆行型ポスト近代論という大きな括りの中に入ります。前近代逆行型ポスト近代論にもいろいろな種類があるけれども、私が考えるポスト近代論とは方向が異なるという程度の荒い基準で分類すればそうなるということです。

物語、詩、夢
投稿者:こうもり.投稿日時:2014年4月03日(木) 21:12.

なんだか「アイルランドには蛇がいない」という命題にまつわる有名な寓話を思い出しました。その証明はアイルランド全土を探索しても難しいが、反証はアイルランドで蛇を1匹発見するだけで良いという寓話です。そして、前回まとめた私の意見を再度、掲載します。

  1. 科学や論理学の合理性により証明される「真偽」から、人の心に強制できる「善悪」は導けない。
  2. 個人においては「生命維持のプログラム」よりも「自由意志」の方にプライオリティーがある。
  3. 「種、生命全体の維持という目的」も必然的なものではなく、恣意、自由意志によって選択し得る目的のひとつに過ぎない。
  4. 個人の「自由意志」よりは、当然多数の「自由意志」の方がプライオリティーを持つ(多数決)。

永井俊哉 さんが書きました:

しかし、絶対的に確実な悪しか有罪にしないということを言っていると、有罪判決を出すことが不可能になってしまうので、私たちの社会は、どちらの選択を選んだ方が相対的に善になりそうなのかという蓋然性に基づいた認識で行為を決めています。

1への反論ですね。裁判というのは「善悪」を判断するシステムではありません。科学捜査から「真偽」を導き、法に照らして「有罪・無罪」の判決を下すものです。終身刑を受けていた故ネルソン・マンデラ大統領が善人なのか、悪人なのかは意見の分かれるところでしょう。「善悪」は科学というシステムや、法というシステムからは導き出せないという一例ですが、これは一匹の蛇とはなりません。永井さんが「導ける」という一匹の蛇を発見されるのをお待ちしております。もちろんマンデラさんのような例は多数挙げられますが。

永井俊哉 さんが書きました:

個人レベルでは、個人により、場合によりまちまちです。たとえ奴隷となってでも生き延びたいという人もいれば、“Liberty or Death”を標語に、自由を求める革命で命を落とす人もいます。後者の場合でも、人は死ぬために死んでいるのではなくて、生命体としての社会が、その生命を維持し、発展していく上で、自由が不可欠だから、いくらか犠牲者が出たとしても、革命は成し遂げられるべきだという思いからなされているのです。

2への反論ですね。この例は一個人の内部において、「個の生命維持プログラム」より「個の自由意志」がプライオリティーを持つことへの反証にはなり得ていません。全体のために自己犠牲の精神(個の自由意志)が働いた例ですから、まさしく「個の生命維持プログラム」が機能しなかった例であり、逆に私の2の説への傍証となり得ます。

「自由」のために自殺しても、武士のように「名」のために自害しても、「成仏」のために即身仏になっても、すべて「生命維持というプログラム」に「自由意志」が優先して働いていることの証明になります。これは蛇に喩えられます。この蛇たちの存在を否定できなければ、2への反証としては成立しません。

永井俊哉 さんが書きました:

多数の自由意志が議題にも取り上げないのはなぜなのか、その理由を考えてください。それは選択の余地のない必然的な究極目的だからです。もしも究極目的の設定が恣意的なら、国連は60年以上の歴史があるにもかかわらず、一度も議題にすらならないというのは、確率論的に見てありえないことでしょう。

《中略》

そういう可能性があるにもかかわらず、なぜその可能性が選ばれないのか、その理由を考えてください。なぜ核兵器が開発されてから、核兵器保有国同士が直接総力戦をすることを回避するようになったのか、その理由を考えてください。もしもこうもりさんが言うように究極目的の設定が恣意的なら、その可能性が全く選ばれないというのは、確率論的にありえないということになるでしょう。

全体的な話になってきましたから、これらは3に対する反論なのでしょう。3の命題も「確率論的にありえないから」という理由で反証できる類いの命題ではなく、私が一匹の蛇を示せば立証可能な性質のものです。そしてあくまでもこの議論は、「自由意志」が「種、生命全体の維持という究極目的」を凌駕できるかどうかが争点の形而上的な性質のものですから、実際に核ミサイルのスイッチが押されることなくとも、それを発想したり、願ったり、企てたりする個人(または組織)が存在するだけで立証できるのです。また、人類が世界を何度も破滅させうるだけの核を保有してしまったという事実だけでも、「種、生命全体の維持という究極目的」が必然的な「自明の理」ではないと、証明できるのです。究極目的が必然であるのなら、その究極目的に反する行為は、想起されることも、企画されることも、実行されることもあり得ないはずだからです。

また、ご質問の方にもお答えしましょう。『多数の自由意志が議題にも取り上げないのはなぜなのか、その理由を考えてください。それは選択の余地のない必然的な究極目的だからです。』と永井さんはおっしゃいますが、違います。国際連合の目的自体が国際平和の維持であり、国連憲章の第1条からそれを謳っているから、「人類破滅的な議案」は議題にも上がらないのです。

『そういう可能性があるにもかかわらず、なぜその可能性が選ばれないのか、その理由を考えてください。なぜ核兵器が開発されてから、核兵器保有国同士が直接総力戦をすることを回避するようになったのか、その理由を考えてください。』その理由は、前回「人類の不断の努力によって」と既に答えてしまったので、それ以上答えようがないのですが。逆に質問させてください。それならばこの先も未来永劫、核戦争は絶対に起こり得ないということになるのですか。生命維持が必然的な究極目的であり恣意に左右されることもないとするならば、放っておいても自動的に核戦争は回避できるということですか。ならば、平和の維持を目的と掲げる国連も、その存在意義を失ってしまうのではないですか。必然でも自明でもないからこそ、国家間の協力や努力が必要となるのです。

永井俊哉 さんが書きました:

「種、生命全体の維持」と「平和」はイコールではありません。中国や北朝鮮のような独裁国家が日本に攻めてきたとき、抵抗しなければ、「平和」を維持することができるし、市場原理に基づく競争を放棄すれば、「心の平和」も手に入るかもしれませんが、そうした平和は停滞以外の何物でもなく、イノベーションを圧殺し、社会を貧しくし、生命の生物的存在すら危うくする事態を帰結するでしょう。このような場合は、戦いが必要です。

ですから、それはあくまでも永井さん個人の「自由意志」が選んだ価値観にすぎないのです。主張内容に矛盾はないのですが、私からすれば、科学至上主義的に過ぎるように聞こえます。現実の社会には、実際に「戦いが必要」な人もいれば、「平和」や「停滞」を望む人もいるのです。

永井俊哉 さんが書きました:

こうもり さんが書きました:

何が有望かを決定するのは「科学的理論」ではなく、あくまでも各個人の「自由意志」です。

「科学的理論」と「自由意志」は矛盾しません。人々は、自由意思に基づいて、科学的理論を信用する選択肢を選んでいるのです。

それも永井さん個人の希望でしょう。『人々は、自由意思に基づいて、科学的理論を信用する選択肢を選んでいるのです。』という人は世の中の人全員ではありません。33%の米国人が、進化論を支持していないという事実にも矛盾します。自由意志に基づいて「科学」を選択する個人もいれば、「キリスト教」を選択する個人もいるということです。

永井俊哉 さんが書きました:

現在の学問では説明のつかない事象があることは事実だが、その謎を解明しなければならないのは、学問的な合理性であって、それ以外ではありません。

このご意見についても同じです。私も合理性を重んじる価値観に生きていますから、未だ未解決な領域もいずれ科学によって解明されて行くことを望んでいます。しかし『解明しなければならないのは、学問的な合理性であって、それ以外ではありません。』と、他の価値観(宗教など)を否定するようなことを断言したりはしません。逆に、科学で解明されていないことに関しては、永井さんがどのような、判断でご自分の行動を規定されているのか、是非お訊きしたいところです。

代わりに質問はされてはいないのですが、永井さんがよくご理解されていないようなので、今回は私の「人は物語、詩、夢のために生きている」という持論について、詳細を述べさせていただきます。毎回の議論に追われて、これまでなかなかきちんとした説明を差し上げられず、失礼しておりました。

まず、ここで言う「物語」「詩」「夢」というのは、実際の小説や詩のような「フィクション」という意味ではありません。定義が難しいのですが、「人が因果関係を見出すもの」と説明すればよろしいでしょうか。借用語をできるだけ使用しないというお約束に反しますが、永井さんには、リオタールの言う「大きな物語」「小さな物語」という意味での「物語」に近いと説明した方が話が早いはずです。

そしてこの考え方の元になっているのが、以前にも書いた「自分が蝶の見ている夢だったり、意識だけの存在だったりする可能性も否定はしきれません」という人の意識、自由意志の在り方に関する諦観です。もちろん実際に「この世界が存在しないのかもしれない」とか「他人は自分が創り出した妄想かもしれない」と信じ込んでいる訳ではありませんが、この考えが教えてくれる自分の認識の限界とあやふやさは、事あるごとに意識して生活するようにしています。

すると私は、何事に対しても確定的な結論を導けないことになります。これまでに私が獲得した知識も経験も、すべてが有限であやふや、言い換えれば矮小で偏狭なものに過ぎないのだから、何をも語る資格なしということになります。しかしその後、他人との認識の共有の仕方を語る学問を少し齧るようになって悟ったのが、閉じられた系の中でなら「事実」関係は導き出せるのかもしれないという一縷の光明です。以前から「(抽象から具象へと学問を並べた)定規」内にある「閉じられた系」の中でなら、各要素を相対化し、因果関係や相関関係から「事実」を、あくまでも「措定」という形で導けるのではないか、と主張していたことです。もちろんその「系を閉じる」という行為自体があやふやであることには変わらないので、あくまでも「措定」に留まる他ないのですが、私が足下にも及ばない偉大なる先達が築き上げた学問ですから、その系が導き出した「事実」には絶大なる信頼を置いております。ですから私は、宗教や伝統よりも「自然・人文科学」を優先して、自らの判断材料としているのです。

しかし、多くの矛盾を抱える人の「自由意志」においては、各要素の還元も、相対化、因果関係の解明も理論通りには行われません。例えば今回頂いた「藁人形」の例で言えば、もちろん科学捜査の科学というシステムの中でも、法というシステムの中でも、人を呪ったぐらいで有罪になったりはしません。しかし時に人は、科学哲学的な因果関係が結べない要素間を、自由意志によって結んでしまうのです。遠藤周作さんの初期作品でテーマとなったような、「殺人者と自分との間にある差異は実際に手を下したか否かであるに過ぎず、自分が人を殺したいと思っただけで、罪があるのではないか」というような原罪意識です。科学的、法的に「罪」はなくとも、「罪悪感」を感じることがある。だから「真偽」と「善悪」は一致しないのです。これはたまたま「藁人形」を採用した否定的な例ですが、希望や喜びや愛など肯定的な要素に関しても、人々はこのような科学でも合理性でも説明できない(理不尽な)因果関係を結びます。それが私の言う「物語」であり「詩」であり、蝶の見る「夢」なのです。

少なくとも私個人は、このような酔生夢死の人生を送っております。そして私がそうであるということは、おそらく他人もそうだろうという仮定の元、このような理論を語るに至ったのです。人は自分の生きた有限の時間の内、記憶に残ったり残らなかったりする経験や知識、あるいは錯覚をも含めた情報を元に、理に合わない因果関係を結んで、自分だけの物語を紡ぐ。もちろんその物語に抗って生きることも不可能ではないのですが、「自分に嘘をつく」というのは非常に困難な芸当となりますから、その物語を払拭したり、無視することは困難なのです。しかし多くの場合、そんな理不尽な「物語」はその理不尽さ故に、ぎりぎりの現実に希望や愛や忘却を与えてくれ、人をどうにか生きながらえさせているのではないかとも思っています。

もちろん永井さんも、ご自身のこれまでの知見から紡がれた、科学や合理性を何よりも重んじる物語の中を生きているのです。しかし、そんな永井さん個人の物語の中に無矛盾律が完全に成立していることも、おそらくはないだろうと思います。『人の心は、情報システムそのものであり、《中略》矛盾が発生すると、情報システムのエントロピーが増大するので、このエントロピーを縮減しないと、情報システムが情報システムとして存続できなくなります。《中略》矛盾の肯定は、情報システムの自殺行為です。』と永井さんはおっしゃっていましたが、例えば結婚式や葬儀などの式典はどうされているのでしょう。私は神の存在を信じてはいませんが、お札やお守りを破ったり、燃やしたりすることには躊躇してしまいます。理論的には説明出来ない矛盾した「自由意志」です。同様に永井さんも、葬儀に参列した際にはご焼香をあげたりしてらっしゃるのではありませんか。クリスチャンの科学者が数多く存在するように、人の心は論理システムの外にあり、矛盾を抱えていても、存続することができ、自殺行為にも至らないのです。

逆に永井さんは、科学がまだ解き明かしていない領域に関しては、何を行動規範として採択されているのでしょうか。結婚や恋愛、子育てや家族、仕事や人付き合いや自然との付き合い方などは、科学や倫理学や哲学の知見を総動員させても答えが出ないどころか、ますます迷宮に入り込むような類いの問題だと思います。私は説明している通り、「時間という自然淘汰のフィルター」に濾しとられた伝統や宗教的価値観を参照にしていますが、これもある科学者の著作から学んだ姿勢です。「根拠は科学的に証明されなくとも、淘汰に生き残った価値観は「真理」を含んでいるはずだ」という考え方は、十分に合理的です。それ以外に、結婚や人付き合いに関して、何か参照にできるものがありましたら、是非ともお教え下さい。

永井俊哉 さんが書きました:

こうもりさんの個人的嗜好を理解することで、「情報化時代のパラダイムシフト」論の隠れた動機が理解できました。こうもりさんのこれまでの発言を信じるなら、「人は物語、詩、夢のために生きている」と言うのですから、こうもりさんにとっての本命は宗教やオカルトではなくて、詩のようです。しかし、これらは非科学的なフィクションという共通項を持っているので、これらの隣接分野に対するシンパなのでしょう。

現在起きている情報革命で、非科学的なフィクションのプレゼンスが高まっているかと言えば、決してそうは言えません。詩が一番もてはやされていたのは前近代で、時代とともにディスクールの散文化が進んでいます。宗教やオカルトも同じで、一番栄えていたのは前近代で、時代とともに文化の世俗化が進んでいます。こうした「自然淘汰」の結果を受け入れず、こうもりさんが今回のようなパラダイムシフトの予測をしたのは、個人的な嗜好ゆえのことなのでしょう。つまり、実際には予測というよりも希望的観測であったということです。

こうもりさんにとって、自分の「情報化時代のパラダイムシフト」論がニューサイエンスや中沢新一流のポストモダン論と同じ分類になるのは不本意なことかと思いますが、私の分類では、前近代逆行型ポスト近代論という大きな括りの中に入ります。前近代逆行型ポスト近代論にもいろいろな種類があるけれども、私が考えるポスト近代論とは方向が異なるという程度の荒い基準で分類すればそうなるということです。

長々と引用してすみません。『こうした「自然淘汰」の結果を受け入れず』とあるのは、「詩」を「科学」が淘汰したということでしょうか。その認識は誤りです。確かに「詩」そのものが一番もてはやされたのは前近代ですが、私が言う「物語、詩、夢」などのコンテンツがもてはやされているのは、まさしく第三次パラダイムの今、現在です。これだけ多くの詩が流行歌に乗り、これだけ多くの物語が映画、漫画、小説となり、各個人の物語がblogやtweetで、大量に生産され、大量に消費される時代がこれまでにあったでしょうか。まさに「情報化時代のパラダイムシフト」です。現在起きている情報革命では、非科学的であっても、科学的であっても、物語のプレゼンスが過去最大に高まっているのです。一方、科学のプレゼンスが高まっていたのが近代、第二次パラダイムです。今後も科学のや技術や工業のプレゼンスが至上となるのなら、それはポスト近代にもならないでしょうし、永井さんのおっしゃる通り、パラダイムシフトにもならないでしょう。

また永井さんはどうしても私を、オカルトのシンパと性格づけて、前近代への逆行を希望する人物に仕立て上げたいようですが、何度も何度も力説するように、私が予測しているのは「後退」ではなく、価値観の「混在」です。『隠れた動機』などと、心理分析のような深読みから、ご自分に都合の良い結論を導かないでください。しかも結局のところ、『こうもりさんにとっての本命は宗教やオカルトではなくて、詩のようです。』と推論しているということは、『こうもりさんにはオカルト趣味があるのでしょうか』という質問も、その『隠れた動機』とやらも、何の役にも立っていないということではありませんか。

これも逆説的に証明しましょう。例えば永井さんが「こうもりさんは科学を信奉しているのでしょうか」という質問をされたとしたら(これは人格ではなく、私の価値観に関する質問ですが)、私は「はい、私は科学が好きですし、科学を信じています」と、強く科学を肯定します。その場合、そこから導かれる『隠れた動機』は依然として、「オカルトのシンパ」なのですか。未来予想に関しても、前近代的逆行を望む人物となるのですか。

だんだん同じような話の繰り返しが増えてきました
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2014年4月04日(金) 17:10.

こうもり さんが書きました:

終身刑を受けていた故ネルソン・マンデラ大統領が善人なのか、悪人なのかは意見の分かれるところでしょう。

また究極目的の選択と手段の選択を混同しています。手段レベルの事実認識に関しては、

永井俊哉 さんが書きました:

もしもあなたの命題が「科学や論理学の合理性により証明される「真偽」から、人の心に絶対的に強制できる「善悪」は導けない」というものであるなら、その命題と「生命維持という究極目的は必然であるから、善悪も導ける」という命題は矛盾しません。なぜなら、価値を手段としての有用性と定義し、「真偽」から「善悪」を導くことが原理的にできるとしても、私たちは有限な存在者であるがゆえに、その「真偽」を完全には認識できないからです。つまり私たちの因果関係の認識が確実ではなく、間違っている可能性がある以上、手段としての最有用性にも絶対的な確実性はなく、それゆえ人の心に絶対的に強制できる善悪は導けないということになります。しかし、絶対的に確実な悪しか有罪にしないということを言っていると、有罪判決を出すことが不可能になってしまうので、私たちの社会は、どちらの選択を選んだ方が相対的に善になりそうなのかという蓋然性に基づいた認識で行為を決めています。

というように、絶対的な確実性がないと既に書いています。

こうもり さんが書きました:

2への反論ですね。この例は一個人の内部において、「個の生命維持プログラム」より「個の自由意志」がプライオリティーを持つことへの反証にはなり得ていません。全体のために自己犠牲の精神(個の自由意志)が働いた例ですから、まさしく「個の生命維持プログラム」が機能しなかった例であり、逆に私の2の説への傍証となり得ます。

その維持が究極目的であるところの生命は、個人の生命ではなくて、全体の生命であると何回言えば理解してもらえるのでしょうか。私はそもそも「個の生命維持プログラム」より「個の自由意志」がプライオリティーを持つことは決してないなどとは主張していません。

こうもり さんが書きました:

3の命題も「確率論的にありえないから」という理由で反証できる類いの命題ではなく、私が一匹の蛇を示せば立証可能な性質のものです。

こうもりさんの主張は、究極目的の設定は恣意的であるというものでした。「恣意的」というのは、偶然であること、確率論的にはランダムということです。意思があるかどうかはここでは本質的ではありません。例えば、さいころの目がランダムに出るなら、各目の確率は1/6になるはずです。もちろん正確に1/6になる必要はなく、誤差があってもよいのですが、統計学的に有意な差が出れば、ランダムではないと判断されます。特定の目の確率が1で、それ以外の確率がゼロである必要はないのです。もしも人類の究極目的の設定が恣意的なら、統計学的に有意ではない多少の誤差はあっても、あらゆる可能性が無作為に選ばれるでしょう。しかし、現実はそれとは明らかに異なります。だからこうもりさんの仮説は棄却されるのです。

生命は生命を保存するようにプログラムされていますが、まれにプログラムのコピーにミスが起きます。一遺伝子あたり10万分の1から100万分の1の確率で自然突然変異が起き、その結果、生存に適さない個体が作られることがあります。しかし、だからといって、生命は自己保存するべくプログラムされていないとは言えません。同様のプログラム上のミスにより、現在71億人いる人間の中には、全生命の滅亡を願う狂人が現れる可能性もあるでしょうが、統計学的に無視できる数である以上、そうした例外は、生命が、生命の維持を究極目的としているという仮説を棄却させることはありません。

こうもり さんが書きました:

そしてあくまでもこの議論は、「自由意志」が「種、生命全体の維持という究極目的」を凌駕できるかどうかが争点の形而上的な性質のものですから、実際に核ミサイルのスイッチが押されることなくとも、それを発想したり、願ったり、企てたりする個人(または組織)が存在するだけで立証できるのです。

核ミサイルを何発か打ったぐらいでは、人類は全滅しません。むしろ人類を救うため、人類の敵である(とされた)国を核兵器で滅ぼすべきだという主張が合理的と受け取られることは十分あります。そういうことがあったとしても、それは生命の維持が究極目的であるという私の仮説に反する出来事ではありません。

こうもり さんが書きました:

また、人類が世界を何度も破滅させうるだけの核を保有してしまったという事実だけでも、「種、生命全体の維持という究極目的」が必然的な「自明の理」ではないと、証明できるのです。

また以前と同じ反論を繰り返させるのですか。

こうもり さんが書きました:

『多数の自由意志が議題にも取り上げないのはなぜなのか、その理由を考えてください。それは選択の余地のない必然的な究極目的だからです。』と永井さんはおっしゃいますが、違います。国際連合の目的自体が国際平和の維持であり、国連憲章の第1条からそれを謳っているから、「人類破滅的な議案」は議題にも上がらないのです。

別に国連に話を限定する必要はありません。この世界にはおびただしい数の集団が存在しますが、その中で、全生命の根絶を目指している集団はいくつありますか。仮に存在したとしても、統計学的には無視できる数だし、政治的影響力はゼロでしょう。

こうもり さんが書きました:

『そういう可能性があるにもかかわらず、なぜその可能性が選ばれないのか、その理由を考えてください。なぜ核兵器が開発されてから、核兵器保有国同士が直接総力戦をすることを回避するようになったのか、その理由を考えてください。』その理由は、前回「人類の不断の努力によって」と既に答えてしまったので、それ以上答えようがないのですが。

さらに、なぜ「人類の不断の努力」が必要なのかを考えてください。これも既に行った議論の繰り返しですが、究極目的の設定が恣意的なら、つまり一定の確率で生命の根絶がランダムに究極目的になるなら、そもそも「人類の不断の努力」など不要です。

こうもり さんが書きました:

逆に質問させてください。それならばこの先も未来永劫、核戦争は絶対に起こり得ないということになるのですか。

「XXを目的とする」と「XXを実現する」は同じではありません。私たちが全知全能の存在ではない以上、目的が実現するとは限りません。過去の歴史を振り返ればわかる通り、目的とは全く逆の結果が生じることはよくあることです。

こうもり さんが書きました:

生命維持が必然的な究極目的であり恣意に左右されることもないとするならば、放っておいても自動的に核戦争は回避できるということですか。ならば、平和の維持を目的と掲げる国連も、その存在意義を失ってしまうのではないですか。必然でも自明でもないからこそ、国家間の協力や努力が必要となるのです。

また究極目的の選択と手段の選択を混同しています。いちいち指摘するのが面倒なので、以下同種の誤解は無視します。

こうもり さんが書きました:

それも永井さん個人の希望でしょう。『人々は、自由意思に基づいて、科学的理論を信用する選択肢を選んでいるのです。』という人は世の中の人全員ではありません。33%の米国人が、進化論を支持していないという事実にも矛盾します。自由意志に基づいて「科学」を選択する個人もいれば、「キリスト教」を選択する個人もいるということです。

私は「全員」とは書いていません。そもそも、その文は、その前を見ればわかる通り、“科学的理論を信用する選択肢を選んでいる人々は、自由意思に基づいて、科学的理論を信用する選択肢を選んでいるのだから、「科学的理論」と「自由意志」は矛盾しません”ということを言っているだけです。

なお、33%の米国人が、進化論を支持していないという事実についてですが、かつては100%近い人が進化論を支持していなかったことを考えるなら、そこまで割合が減ったことは、キリスト教の影響力が低下したことを示しています。それに、進化論の支持者は、他の国ではもっと高い割合を占めています。以下は、「ヒトは下等な種から発達した」という意見に賛成する人の国別の割合と順位です。

国名順位割合%
ドイツ91.5%
日本90.1%
デンマーク89.1%
スウェーデン86.4%
オーストラリア83.6%
ポルトガル83.1%
ブルガリア79.4%
イギリス78.3%
チェコ76.8%
スロバキア1075.9%
スペイン1173.5%
[中略]
アメリカ合衆国1446.2%

ここからもわかる通り、キリスト教の影響力は、米国よりも欧州で顕著に衰退しています。

こうもり さんが書きました:

逆に、科学で解明されていないことに関しては、永井さんがどのような、判断でご自分の行動を規定されているのか、是非お訊きしたいところです。

過去の学問が解明できなかったことをこれからの学問は解明するのです。私のシステム論もその一つです。以下、同じような質問がまだまだありますが、何回聞いても同じ答えしか出しません。

こうもり さんが書きました:

少なくとも私個人は、このような酔生夢死の人生を送っております。そして私がそうであるということは、おそらく他人もそうだろうという仮定の元、このような理論を語るに至ったのです。

そういうこうもりさんの個人的趣味が「情報化時代のパラダイムシフト」論のバックグラウンドになっていたということですね。ならば、こうもりさんの個人的趣味を聞いたことは無駄ではなかったということです。

こうもり さんが書きました:

例えば結婚式や葬儀などの式典はどうされているのでしょう。私は神の存在を信じてはいませんが、お札やお守りを破ったり、燃やしたりすることには躊躇してしまいます。理論的には説明出来ない矛盾した「自由意志」です。同様に永井さんも、葬儀に参列した際にはご焼香をあげたりしてらっしゃるのではありませんか。

日本の結婚式や葬儀は、社会的儀礼であって、宗教的儀礼ではありません。私は坊さんと何度か話をしたことがありますが、彼らは宗教的な話は全然しません。結婚式や葬儀などの通過儀礼が社会的儀礼としてなぜ必要とされているのかに関しては、「イニシエーションとは何か」などを参照してください。

こうもり さんが書きました:

『こうした「自然淘汰」の結果を受け入れず』とあるのは、「詩」を「科学」が淘汰したということでしょうか。

淘汰という言葉は、狭義には絶滅させることですが、絶滅か否かというようなオール・オア・ナッシングでは、適用の範囲が限定されます。そこで、私の淘汰論では、もう少し広い意味で使っています。つまりプレゼンスが比較的小さくなることで、狭義の淘汰はその極限的なケースとして考えてください。

こうもり さんが書きました:

確かに「詩」そのものが一番もてはやされたのは前近代ですが、私が言う「物語、詩、夢」などのコンテンツがもてはやされているのは、まさしく第三次パラダイムの今、現在です。これだけ多くの詩が流行歌に乗り、これだけ多くの物語が映画、漫画、小説となり、各個人の物語がblogやtweetで、大量に生産され、大量に消費される時代がこれまでにあったでしょうか。まさに「情報化時代のパラダイムシフト」です。

フィクションがまだ存在することは科学が知の中心的役割を果たしていることと矛盾しません。現在の科学がコンピュータを用いて盛んに行っているシミュレーションもフィクションの一種で、フィクションの生産は、人類の知的活動にとって不可欠と言えるでしょう。また美的欲望は知的欲望とはまた別ですから、芸術作品が大量に作られていることも、矛盾する傾向ではありません。もしも科学的に実証できないフィクションを実在と信じ、逆に科学をフィクションとみなすようなオカルト信者が社会の主流となれば、それはたしかにパラダイムシフトと呼べるでしょうが、そういうことは起きていないし、今後も起きそうにありません。

長い議論ゆえに、だんだん同じような話の繰り返しが増えてきましたが、まだ何か聞き足りないことはありますか。

遺伝子と自由意志
投稿者:こうもり.投稿日時:2014年4月15日(火) 21:57.

何度も同じ事を書かせてしまって申し訳ありません。議論もだいぶ長くなってきましたので、私もそろそろ何らかの決着がつくことを望んでいるのですが、頑固なせいか、なかなか納得に至りません。ただ今回の永井さんの記述で、どうやら私の誤解の原因が「恣意」という言葉の用法にあったように思えてきましたので、確認させてください。

【恣意的】デジタル大辞泉

(形動)気ままで自分勝手なさま。論理的な必然性がなく、思うままにふるまうさま。「―な判断」「規則を―に運用する」

【恣意的】大辞林(第三版)

(形動)その時々の思いつきで物事を判断するさま。「 -な解釈」

【恣意的】広辞苑

  1. 論理的に必然性がないさま。
  2. 自分の好みやそのときの思い付きで行動するさま。

複数書き出しましたが、私は「恣意的」を上記のような一般的な意味で使用していました。一方で、永井さんの今回の説明には「確率」とか「ランダム」という言葉が散見されますので、おそらく「言語の恣意性」と言う時に使われるような意味で使っていらっしゃったのだと推測出来ました。さらにはその確率を遺伝子の突然変異などの説明につなげていらっしゃるので、もしかすると、私より科学的な主張をされているのかもしれない、そこに齟齬の原因があったのかもしれないと思い至りました。つまり、

  • 私、「究極目的は必然的ではなく恣意的に選べる」各個人の自由意志によって選べる人文学的な問題。
  • 永井さん、「「究極目的は必然的であり恣意的に選べない」生物として決定されている自然科学的な問題。

という考え方の違いがすれ違いの原因となり、何度も『究極目的の選択と手段の選択を混同してい』ると書かせてしまったのではないかと思い至りました。もしかすると永井さんは「種、生命全体の維持という究極目的は生物に生得的に備わっているのだから、我々の自由意志には選択の余地がない」ということをおっしゃっていたのですか。そう考えて、これまでの文を読み直すと、永井さんの理論が理解できるようになりました。

ひょっとするとまだ私が読み違えているのかもしれませんが、もしそうだとしても、今度はそうすると科学的な部分で私の認識と異なる部分が出て来ますので、『まだ何か聞き足りないことはありますか。』のお言葉に甘えさせて頂いて、以下の4点についてのみ、質問させてください。

Q1.科学的には『究極目的』は存在しないのではないですか?

全員ではないと思いますが、一般的に科学者の間では「この宇宙にも、世界にも意志や目的など存在しない」ということが共通認識、常識のようになっているのではないですか? 私はそのように認識しておりました。「目的」などに意義を見出すのは人間の自由意志だけであり、人文学的な問題だと思っていましたので、これまでの議論も人文学寄りの視点から私は論じておりました。ですから「種、生命全体の維持という究極目的」も恣意、自由意志によって自由に取捨選択できるのだと主張していたのです。科学的に論じるのなら、「究極目的」が存在する以前に何の「目的」すらこの世界には設定されてないと、永井さんに反論していたでしょう。

Q2.「種全体や他の生命全体の維持」をプログラムされている利他的な遺伝子は存在しないのではないですか?

動物行動学者たちは、一見利他的に見える動物の行動も(母性愛や献身的行動など)、すべて利己的遺伝子によるものだと仮定しています。複雑で予測不能な振る舞いをする「自由意志」とは違い、真に利他的に行動する遺伝子は存在しないはずです。遺伝子には、種や生命全体を維持するような指令がプログラムされているのではなく、単に自己複製機能が備わっているだけなのではないですか。そもそも生命の起源は、先に自己複製を繰り返す高分子有機体が存在し、それが油脂状の膜に覆われ細胞状になり、原生動物へと進化し生命の誕生となる、という極めて単純なものです。後はこの単純なプログラムを何十億年もの間繰り返すことによって、これだけ複雑な進化を遂げたことになるのですが、生物はその間に「自由意志」を獲得することはあっても、永井さんの言う「種、生命全体の維持という究極目的」をプログラムされたことはなかったはずです。生物学的には、『究極目的は必然であって、恣意的ではない』どころか、そもそもそんな機能は備わってないとしか言えません。集団や群レベルならともかく、少なくとも種全体や地球全体の生命体を守ろうとする生物はこの地球に存在しませんし、他の種をも含めて生物全体を守りたいと願うことができるのは人間の「自由意志」だけだと思います。

Q3.我々の行動を決定できるのは「利己的遺伝子」と「自由意志」だけになるのではありませんか。

言い換えれば、我々の意志とは関係ない自律神経によって制御されている呼吸や鼓動などの生理機能と、自由意志によって統制されている随意筋の動き、この二つによって我々は会話し、移動し、労働し、食事し、睡眠し、生殖しているのではありませんか。このどこかに永井さんの言う「究極目的」が紛れ込む余地はないかと思います。そして、我々の意志で心臓を止めることが出来ない一方で、自らの心臓にナイフを突き立てる、つまり自殺することができる。また、生殖本能が備わっている一方で、婚姻や出産を拒否することもできる。これが遺伝子と自由意志の関係だと思います。ですから結局は「自殺」も「子どもをつくること」も「平和」も「生命全体を含めた環境保護」も「(技術的に可能なら)地球を破壊すること」も、我々の自由意志の選択に任されているのです。

Q4.生命の維持を望まない個体を、確率や突然変異だけで説明するのは無理がありませんか。

永井俊哉 さんが書きました:

こうもりさんの主張は、究極目的の設定は恣意的であるというものでした。「恣意的」というのは、偶然であること、確率論的にはランダムということです。意思があるかどうかはここでは本質的ではありません。例えば、さいころの目がランダムに出るなら、各目の確率は1/6になるはずです。もちろん正確に1/6になる必要はなく、誤差があってもよいのですが、統計学的に有意な差が出れば、ランダムではないと判断されます。特定の目の確率が1で、それ以外の確率がゼロである必要はないのです。もしも人類の究極目的の設定が恣意的なら、統計学的に有意ではない多少の誤差はあっても、あらゆる可能性が無作為に選ばれるでしょう。しかし、現実はそれとは明らかに異なります。だからこうもりさんの仮説は棄却されるのです。

生命は生命を保存するようにプログラムされていますが、まれにプログラムのコピーにミスが起きます。一遺伝子あたり10万分の1から100万分の1の確率で自然突然変異が起き、その結果、生存に適さない個体が作られることがあります。しかし、だからといって、生命は自己保存するべくプログラムされていないとは言えません。同様のプログラム上のミスにより、現在71億人いる人間の中には、全生命の滅亡を願う狂人が現れる可能性もあるでしょうが、統計学的に無視できる数である以上、そうした例外は、生命が、生命の維持を究極目的としているという仮説を棄却させることはありません。

私は、「生物に自己保存がプログラムされていない」と言っているのではありませんが、自己保存も生殖活動もプログラムはされている上で、「自由意志」がそれに反した行動を選択してしまう事実を指摘しているのです。ですからその例としては、「世界の滅亡を目論む個体」だけではなく、「自殺をする個体」も「結婚して子孫を増やさない個体」も遺伝子に反した行動に当て嵌まります。永井さんは『全生命の滅亡を願う』個体を数十万分の一の確率で発生するコピーミス、突然変異で説明したり、「狂人」と呼ぶことで、『統計的に無視できる』と結論づけられているようですが、「世界なんか消えてしまえばいい」と発想する人はもっと高い確率で存在するはずです。さらには「自殺をする人」や「子どもをつくらない人」などの、自らの利己的遺伝子の命に逆らう人々が、突然変異体や狂人であるとは私には思えません。彼らは自らの自由意志で、自殺をしてしまったり、未婚を選んだりしているのだと考える方が妥当でしょう。

永井俊哉 さんが書きました:

フィクションがまだ存在することは科学が知の中心的役割を果たしていることと矛盾しません。現在の科学がコンピュータを用いて盛んに行っているシミュレーションもフィクションの一種で、フィクションの生産は、人類の知的活動にとって不可欠と言えるでしょう。また美的欲望は知的欲望とはまた別ですから、芸術作品が大量に作られていることも、矛盾する傾向ではありません。もしも科学的に実証できないフィクションを実在と信じ、逆に科学をフィクションとみなすようなオカルト信者が社会の主流となれば、それはたしかにパラダイムシフトと呼べるでしょうが、そういうことは起きていないし、今後も起きそうにありません。

私はオカルト信者が主流になることによって、パラダイムシフトが起こると予測しているのではありません。価値観がマルチバース状に細分化することによって起こるだろうと予測しているのです。その程度ではパラダイムシフトとは呼べないと永井さんが認識されるのなら、やはりこの議論も平行線を辿るだけになりそうですね。この議論の冒頭の方で主張していた通り、少なくともその細分化により現在の権力構造に変化が起こることが予測されますから、それをもってして私はパラダイムシフトを予測しているに過ぎません。

永井俊哉 さんが書きました:

こうもり さんが書きました:

少なくとも私個人は、このような酔生夢死の人生を送っております。そして私がそうであるということは、おそらく他人もそうだろうという仮定の元、このような理論を語るに至ったのです。

そういうこうもりさんの個人的趣味が「情報化時代のパラダイムシフト」論のバックグラウンドになっていたということですね。ならば、こうもりさんの個人的趣味を聞いたことは無駄ではなかったということです。

借用語を避けるためにちぐはぐな表現になっていますが、私の「このような酔生夢死の人生を送っております。そして私がそうであるということは、おそらく他人もそうだろうという仮定の元」というのは、「デカルトを受け入れたのちに、現象学的な考え方を導入している」ということです。これがオカルト趣味とどういう関係があるのか未だに分かりません。

そろそろ終わりにしましょう
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2014年4月16日(水) 17:52.

こうもり さんが書きました:

  • 私、「究極目的は必然的ではなく恣意的に選べる」各個人の自由意志によって選べる人文学的な問題。
  • 永井さん、「「究極目的は必然的であり恣意的に選べない」生物として決定されている自然科学的な問題。

私は、人文学と自然科学を対立的には考えていません。私のシステム論は、文系と理系といった従来の不毛な二元論を超えることを目標としています。この掲示板は、自然科学、人文科学、社会科学という伝統的な区分を採用していますが、これはあくまでも対象の区分であって、対象に対するアプローチが対象によって根本的に異なるということはありません。

こうもり さんが書きました:

一般的に科学者の間では「この宇宙にも、世界にも意志や目的など存在しない」ということが共通認識、常識のようになっているのではないですか?

はい、私も宇宙に意志や目的があるとは思っていません。地球に生命が誕生したことも単なる偶然でしょう。ただ、たまたま地球に誕生した生命が、たまたま自己増殖するようにプログラムされていたために、今日に至るまで増殖を続けているというだけのことです。進化の途中で自己保存に適さない個体や種も生産されても、それらが淘汰されるがゆえに、自己保存と自己増殖に最適化された個体や種が主流となったわけで、生命の究極目的は自己保存であるというのは、結果として言えることです。

こうもり さんが書きました:

動物行動学者たちは、一見利他的に見える動物の行動も(母性愛や献身的行動など)、すべて利己的遺伝子によるものだと仮定しています。複雑で予測不能な振る舞いをする「自由意志」とは違い、真に利他的に行動する遺伝子は存在しないはずです。

リチャード・ドーキンスの利己的遺伝子説が理論的に破綻していることは、『ファリック・マザー幻想』の「私たちは利己的遺伝子の乗り物にすぎないのか」(p.109-122)で詳しく説明したので、ここでは取り上げませんが、結論だけ言えば、ドーキンスとは逆に、利己的に見える遺伝子の振る舞いも、生命全体の保存を究極目的としてプログラムされていると解釈しなければ、説明がつかないということです。

こうもり さんが書きました:

集団や群レベルならともかく、少なくとも種全体や地球全体の生命体を守ろうとする生物はこの地球に存在しませんし、他の種をも含めて生物全体を守りたいと願うことができるのは人間の「自由意志」だけだと思います。

生命全体の保存を究極目的としてプログラムされているということは、必ずしも各個体がそれをそう意識しているということを意味しません。むしろそう意識しない方が究極目的の実現には好都合なのです。『ファリック・マザー幻想』では、このメカニズムを、ヘーゲルの「理性の狡知」をもじって、「生命の狡知」と名付けました(p.119-120)。

こうもり さんが書きました:

我々の意志とは関係ない自律神経によって制御されている呼吸や鼓動などの生理機能と、自由意志によって統制されている随意筋の動き、この二つによって我々は会話し、移動し、労働し、食事し、睡眠し、生殖しているのではありませんか。このどこかに永井さんの言う「究極目的」が紛れ込む余地はないかと思います。

どちらも同じ究極目的に対する手段です。随意運動と不随意運動との違いは、目的を実現するための手段の選択が、他のようでもありうるのか否かに依存しています。これに関しては、「意識とは何か」を参照してください。逆に言えば、違いはそれだけのことだということです。

こうもり さんが書きました:

私は、「生物に自己保存がプログラムされていない」と言っているのではありませんが、自己保存も生殖活動もプログラムはされている上で、「自由意志」がそれに反した行動を選択してしまう事実を指摘しているのです。ですからその例としては、「世界の滅亡を目論む個体」だけではなく、「自殺をする個体」も「結婚して子孫を増やさない個体」も遺伝子に反した行動に当て嵌まります。永井さんは『全生命の滅亡を願う』個体を数十万分の一の確率で発生するコピーミス、突然変異で説明したり、「狂人」と呼ぶことで、『統計的に無視できる』と結論づけられているようですが、「世界なんか消えてしまえばいい」と発想する人はもっと高い確率で存在するはずです。さらには「自殺をする人」や「子どもをつくらない人」などの、自らの利己的遺伝子の命に逆らう人々が、突然変異体や狂人であるとは私には思えません。彼らは自らの自由意志で、自殺をしてしまったり、未婚を選んだりしているのだと考える方が妥当でしょう。

こうもりさんが「反証はアイルランドで蛇を1匹発見するだけで良い」と言い、私が「確率が低ければ統計学的に無視できる」というように見解が異なるのは、こうもりさんが個体レベルで生命を考えるのに対して、私は全体レベルで考えるという違いがあるからでしょう。生命をその全体から見るなら、低い確率で個体に故障が起きても、全体には影響を与えないから、問題はないのです。

生命のプログラムは、偶然生まれた不完全なものですから、コピーエラーや誤作動が起き、自己保存にとって好ましくない結果になることもあるでしょう。しかし、だからといって、生命の究極目的が自己保存であることが否定されないのは、コンピューターのプログラムに、コンピューターを破壊するような致命的なエラーを惹き起こすバグが低い確率で表れたとしても、だからといって、そのプログラムがコンピュータを破壊することを目的としたプログラムであるとは言えないのと同じことです。

なお、生命には、破壊本能がありますが、これは遺伝子上の欠陥ではなくて、生命が進化する上でむしろ必要な性向です。シュンペーター風に言えば、イノベーションのために古いシステムを壊す創造的破壊の原動力というところですが、システム論的に言えば、複雑性を縮減するには、複雑性を増大させなければいけないということです。

こうもり さんが書きました:

私はオカルト信者が主流になることによって、パラダイムシフトが起こると予測しているのではありません。価値観がマルチバース状に細分化することによって起こるだろうと予測しているのです。その程度ではパラダイムシフトとは呼べないと永井さんが認識されるのなら、やはりこの議論も平行線を辿るだけになりそうですね。この議論の冒頭の方で主張していた通り、少なくともその細分化により現在の権力構造に変化が起こることが予測されますから、それをもってして私はパラダイムシフトを予測しているに過ぎません。

こうもりさんは、“「物語」「詩」「夢」というのは、実際の小説や詩のような「フィクション」という意味ではありません”と言って、かなり広い意味を持たせようとしています。しかし、もしも「物語、詩、夢」がたんに情報一般を表すのなら、言っていることは、「情報化時代には情報の数や種類が増える」というごく当たり前のことしか言っていないことになります。それなら、これまで「構造主義」批判という形で行ってきた科学批判は何だったのでしょうか。他方で、もしも「物語、詩、夢」が文字通りの意味なら、これまでの科学批判は理解できますが、その未来予測が時代のトレンドにあっているとは言えなくなります。

情報革命というパラダイムシフトが「価値観がマルチバース状に細分化することによって起こる」、あるいはポスト近代が権力の脱中心化をもたらすという認識には反対しませんが、マルチバース化するということは、科学技術や資本主義経済が相対的に重要でなくなるということではありません。むしろ、科学技術や資本主義経済は、その内部がマルチバース化されることで、より大きな存在になっていくというのが私の認識です。

最初の投稿に「資本主義社会が崩壊することまではないにしても、貨幣経済の重要性が今後弱まったりすることがあるのではないか」とか、「世界的な経済の停滞やスーパーキャピタリズム、カジノ資本主義と呼ばれるような資産経済の台頭によって、資本主義の終焉が囁かれるようにもなりました」とかありました。こうした予言は、マルクス以来、多くの社会主義者によってなされましたが、資本主義の次の段階とされていた社会主義の方が先に終焉を迎え、資本主義は、グローバルな市場経済という形で、いわばマルチバース化されつつ、より一層強大になっています。このトレンドが逆転しないのは、オカルトや宗教から科学技術へというトレンドが逆転しそうにないのと同じです。

こうもり さんが書きました:

借用語を避けるためにちぐはぐな表現になっていますが、私の「このような酔生夢死の人生を送っております。そして私がそうであるということは、おそらく他人もそうだろうという仮定の元」というのは、「デカルトを受け入れたのちに、現象学的な考え方を導入している」ということです。これがオカルト趣味とどういう関係があるのか未だに分かりません。

酔生夢死の辞書的意味は、以下の通り。

何もせずに、むなしく一生を過ごすこと。生きている意味を自覚することなく、ぼんやりと無自覚に一生を送ること。酒に酔ったような、また、夢を見ているような心地で死んでいく意から。[8]

「私がそうであるということは、おそらくデカルトもそうだろうという仮定の元」、デカルトを援用したのでしょうか。しかし、デカルトのように、絶対的真理に到達するという明確な目的をもって方法的懐疑を行った哲学者は、酔生夢死ではありません。デカルトは、全ての人を騙す悪魔がいて、自分が絶対に正しいと思う真実すら間違っているのではないかと想定してみました。もしもそう信じ続けるなら、オカルト信者と変わりがありませんが、デカルトは、それを否定し、合理主義的な哲学を選びました。だから、デカルトと自分を同一視してはいけません。

デカルトに限った話ではありませんが、「私がそうであるということは、おそらく他人もそうだろうという仮定の元」に一般的な理論を作ると、自分の趣味で社会全体を論じることになります。「これがオカルト趣味とどういう関係があるのか未だに分かりません」とあるので、こうもりさんは、その点を自覚していないということなのでしょう。

たぶんこれ以上議論を続けても、こうもりさんが私の説明に納得することはないと思います。このトピックでは1月から50回以上投稿が続いていますが、その割には、閲覧数が3000台と低迷しています。たぶん同じような話の繰り返しなので、読者も退屈しているのでしょう。だからそろそろ終わりにしましょう。

長きにわたる議論、ありがとうございました。
投稿者:こうもり.投稿日時:2014年4月28日(月) 19:35.

永井さんからの終了宣言を頂いたようで…、長きに渡る間お付き合い頂き誠にありがとうございました。結果的には合意には至りませんでしたが、貴重なお時間と労力を割いて頂き、大変に感謝しております。今回の書き込みで、ご著作『ファリック・マザー幻想』への参照をお勧め頂いていますので、早速購入して一読してみようと思います。せせこましい話ですが僅かながらでも印税に貢献して、このご恩に報いたいと思います。そしてまたそれとは別に、反論の方も下記にて述べさせて頂きます。

永井俊哉 さんが書きました:

はい、私も宇宙に意志や目的があるとは思っていません。地球に生命が誕生したことも単なる偶然でしょう。ただ、たまたま地球に誕生した生命が、たまたま自己増殖するようにプログラムされていたために、今日に至るまで増殖を続けているというだけのことです。進化の途中で自己保存に適さない個体や種も生産されても、それらが淘汰されるがゆえに、自己保存と自己増殖に最適化された個体や種が主流となったわけで、生命の究極目的は自己保存であるというのは、結果として言えることです。

『生命の究極目的は自己保存であるというのは、結果として言えることです。』とはどういうことでしょう? 「結果」と「目的」を同一視しているということですか。確かに「原因 – 結果」と「手段 – 目的」は、それぞれ呼応する似通った概念ですが、これを同一視してしまうのは、「真偽」と「善悪」を混同することと同じ事になるでしょう。「偶然から生まれた結果」を観察したのちに、「恣意性の混ざる余地のない、必然的な究極目的」という解に帰結してしまっては、観察者の主観を排除しようとする科学的姿勢とは呼べません。事実と当為は分けて考えるべきです。

永井俊哉 さんが書きました:

リチャード・ドーキンスの利己的遺伝子説が理論的に破綻していることは、『‪ファリック・マザー幻想‬‬‬‬‬‬‬‬‬』の「私たちは利己的遺伝子の乗り物にすぎないのか」(p.109-122)で詳しく説明したので、ここでは取り上げませんが、結論だけ言えば、ドーキンスとは逆に、利己的に見える遺伝子の振る舞いも、生命全体の保存を究極目的としてプログラムされていると解釈しなければ、説明がつかないということです。

ファリック・マザー幻想』を読んでいないので何とも言えませんが、結果のみを記述して導かれるのが「利己的遺伝子」です。自己複製プログラムと突然変異の結果として、この世界には多様性に富む生態系が広がったということです。逆に究極目的があるとする永井さんの仮説は、「宇宙も世界も意志や目的を持たない」とする科学者的態度と矛盾します。「突然変異の結果として、多様性と変化適応力が生まれるだけ」の話であり、「多様性と変化適応力を目的として突然変異を起こしている」のではありません。両者は似ているようですが、前者からは事実が導かれるのに対して、後者からは当為が導かれてしまうので別物になります。

永井俊哉 さんが書きました:

こうもり さんが書きました:

さらには「自殺をする人」や「子どもをつくらない人」などの、自らの利己的遺伝子の命に逆らう人々が、突然変異体や狂人であるとは私には思えません。彼らは自らの自由意志で、自殺をしてしまったり、未婚を選んだりしているのだと考える方が妥当でしょう。

こうもりさんが「反証はアイルランドで蛇を1匹発見するだけで良い」と言い、私が「確率が低ければ統計学的に無視できる」というように見解が異なるのは、こうもりさんが個体レベルで生命を考えるのに対して、私は全体レベルで考えるという違いがあるからでしょう。生命をその全体から見るなら、低い確率で個体に故障が起きても、全体には影響を与えないから、問題はないのです。

ということは、永井さんは「自殺をする個体」や「結婚しない個体」を「低い確率で起こる個体の故障」だと認識されているということですね。確かに『これ以上議論を続けても、こうもりさんが私の説明に納得することはないと思います』とおっしゃる通り、私には納得しかねる考え方です。それらを各個人の「自由意志」の決断によるものだと考える私は、もちろんその自由意志の決定を、各個体レベルの範囲にしか及ばないものだと認識しております(仮に地球破壊爆弾のようなものがあれば、個人一人の決断で全生命体を殲滅出来てしまいますが)。そして遺伝子に関しても、各個体が自己保存プログラムと突然変異を繰り返した結果、現状のような多様で複雑な生態系というシステムを地球上に実現させたのであり、各個体に利他的な遺伝子や、永井さんの言う「種全体、生命全体の維持という究極目的」がプログラムされているのではないと考えます。ましてや生態系全体というシステムに何かの意志や目的がプログラムされているとするのも、非科学的であるし非論理的だと考えます。

確かにシステム全体を俯瞰すれば、利他的に見える行動も観察されますし、多様性による様々な変化適応も認められます。が、そういった生物の複雑な進化に対する説明を剃刀で削ぎ落とし、シンプルな利己的遺伝子に絞って見せたのがドーキンスの功績なのでしょう。それをまた『生命全体の保存を究極目的としてプログラムされていると解釈しなければ、説明がつかない』とする永井さんのご意見には興味がありますが、科学の趨勢には逆行している感が否めません。これもまた『ファリック・マザー幻想』を読むまでは、確かなことは言えませんが。

永井俊哉 さんが書きました:

こうもりさんは、“「物語」「詩」「夢」というのは、実際の小説や詩のような「フィクション」という意味ではありません”と言って、かなり広い意味を持たせようとしています。しかし、もしも「物語、詩、夢」がたんに情報一般を表すのなら、言っていることは、「情報化時代には情報の数や種類が増える」というごく当たり前のことしか言っていないことになります。それなら、これまで「構造主義」批判という形で行ってきた科学批判は何だったのでしょうか。他方で、もしも「物語、詩、夢」が文字通りの意味なら、これまでの科学批判は理解できますが、その未来予測が時代のトレンドにあっているとは言えなくなります。

『もしも「物語、詩、夢」がたんに情報一般を表すのなら』そういう事は言っていませんし、『他方で、もしも「物語、詩、夢」が文字通りの意味なら、』そういうことも言っていません。下に箇条書きにて説明致します。

永井俊哉 さんが書きました:

酔生夢死の辞書的意味は、以下の通り。

‪何もせずに、むなしく一生を過ごすこと。生きている意味を自覚することなく、ぼんやりと無自覚に一生を送ること。酒に酔ったような、また、夢を見ているような心地で死んでいく意から。

「私がそうであるということは、おそらくデカルトもそうだろうという仮定の元」、デカルトを援用したのでしょうか。

いえ、そういう意味で援用させて頂いたのではありません。ですから『自分の趣味で社会全体を論じることになります。』という永井さんの出された結論も、私の言いたい事とは異なります。これも下記に箇条書きにて説明します。

こうもり さんが書きました:

借用語を避けるためにちぐはぐな表現になっていますが、私の「このような酔生夢死の人生を送っております。そして私がそうであるということは、おそらく他人もそうだろうという仮定の元」というのは、「デカルトを受け入れたのちに、現象学的な考え方を導入している」ということです。

おそらく永井さんは「このような」という言葉で私が指し示していた部分をよくお読み頂いていないか、顧慮されていなかったために、勘違いをされたのでしょう。忌避されている借用語を使って、再度詳細を述べれば、

「酔生夢死の人生を送る」=「デカルトを受け入れたのちに」というのは、

1. 私が幼少時から当然のように存在すると思っていたこの現実世界を、デカルトは懐疑してみせた。

2. デカルトによれば欺く神や悪い霊により、確かなものは我々のコギトしかないことになる。

3. ということは、これまで得た科学的、人文学的すべての知見も、誤りなのかもしれない。

4. またデカルトによれば、我々が覚醒していることも定かではないことになる。

5. よって自分が培養液に浮かぶ脳髄だけの存在だったり、意識だけの存在だけだったりすることも否定しきれない。

6. すると全てが、自分の妄想に過ぎないむなしい、無意味な「夢(物語、詩)」であることも否定出来ない。

7. 個人的にはこのコギト命題には若い時から悩まされたが、受け入れざるを得ないと帰結している。

という、単なるデカルトに従うというだけの態度に過ぎませんので、「自分の趣味」でも「オカルト趣味」でもないと思うのですが。

「おそらく他人もそうだろうという仮定の元」=「現象学的な考え方を導入している」というのは、

8. すると他人も、自分の意識が妄想した想像の産物(物語、詩、夢)にすぎないことになってしまう。

9. そのような他人に私が語りかけるのも、想像の産物に語りかけるのと同様になるので意味のない、虚しい行為となる。

10. しかしその後、コギト命題をエポケーするという現象学に出会う。

11. 間主観性から導かれるのであれば、整合性のある他者を措定することができることを知る。

12. つまり私が主観の檻に閉じ込められているように、他人もその人の主観の檻に閉じ込められている。

13. そのようなノエマとしての他者になら、語りかける意味もあるし、論理的な整合性も成り立つのではないか。

という、単に「現象学的な考え方を導入している」ということを表明しているにすぎません。『自分の趣味で社会全体を論じ』ている訳でもありませんし、「オカルト趣味」もまったく関係ありません。

それでは、今回も長くなってしまいましたが、本当に長いお付き合いありがとうございました。終了宣言をされた永井さんですから、今回の私の主張には特にお返事を頂かなくて結構です。私の方は、また『ファリック・マザー幻想』の読了時に思う事が生じれば、また書き込みに立ち寄るかもしれません。

2. 参照情報

関連著作
注釈一覧
  1. ここでの議論は、システム論フォーラムの「情報化時代のパラダイムシフト」からの転載です。
  2. “Over the past few years, one of the most important shifts in the digital world has been the move from the wide-open Web to semiclosed platforms that use the Internet for transport but not the browser for display. It’s driven primarily by the rise of the iPhone model of mobile computing, and it’s a world Google can’t crawl, one where HTML doesn’t rule. […] The fact that it’s easier for companies to make money on these platforms only cements the trend. Producers and consumers agree: The Web is not the culmination of the digital revolution." ― The Web Is Dead. Long Live the Internet (date) August 17, 2010 (media) Wired Magazine
  3. 大画面映像やアプリによる楽しみが新しい世界を提供。スマートグラス『BT-200AV』、『BT-200』」セイコーエプソン株式会社/エプソン販売株式会社. 2014年1月28日.
  4. “The hyperlinked, free-flowing, egalitarian, and ubiquitous world wide web will fade away. Instead, digital existence will mostly transpire within the more self-contained domains of individual apps, which offer their creators the flexibility and power of building right into the mobile operating systems. We will still have the internet, but it won’t be the same wherever you use it. And some will have more power over it than others." ― Marcus Wohlsen. “The PC’s Death Might Also Mean the Web’s Demise" “Wired.com" 01.13.2014.
  5. 永井俊哉「パラダイムとは何か」2012年11月23日.
  6. 永井俊哉「科学者はオカルト現象とどう向き合えばよいのか」2013年3月12日.
  7. 永井俊哉「人はどのような知を求めるのか」2013年9月22日.
  8. 「酔生夢死」『新明解四字熟語辞典』三省堂 (1998/1/1).